「汚れた血」はアレックスの顔を見るだけで十分の映画だ

人生をなんとかしなければというようなことは誰でも考えたことはあるだろう。
おそらくその観念こそが”若さ”ということなのだ、とすら思う。
「汚れた血」のアレックス(ドニ・ラヴァン)はこの映画全編で、そんな自分自身からの脱出を試みようとする。
今で言うところの”自分探し”の極限バージョンである。

この映画は、彼の顔、そして存在感を見るだけで十分な映画だ。
「アバター」真っ青な彼の素顔は、逃れようもない運命すら感じさせる。
確か、この映画の中盤でデヴィッドボウイの歌にあわせて彼が疾走するシーンがある。
彼は彼自身から、逃れようともがくが、しかし、当然のこと、彼の肉体、そして彼の血は、彼そのものという当たり前のことから逃れられない...

彼の内的時間が映画の中でゆがむそのシーンは、ちょうど、北野武の「ソナチネ」の沖縄のシーンで時間が止まるシーンの対極だ。その意味で、「汚れた血」は、僕の中で北野映画と結びつく。優れた映画監督は時間を制御できるのだ。
ついでに言えば、この映画のアレックスは、一連の北野映画における武の存在感と似ている。
いずれにしても、多分、北野武は、カラックスの子供だ。

この映画(そして、「ボーイミーツガール」)は、後に公開された「ポンヌフの恋人」の封切り時になにかの特別上映で観たような気がする。だから、80年代映画といいながら、僕にとっては90年代映画なのかもしれない。
映画館を出たとき、この映画で数度繰り返されるジュリエットビノシュが下唇をちょっと突き出して前髪に息を吹き上げる癖の真似をしたっけ。

ちなみに、「存在の耐えられない軽さ」の中の1シーンでも、彼女はその前髪息吹き上げをする。

まさむね

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