「ノルウェイの森」、小説と映画におけるテーマの違い

村上春樹の「ノルウェイの森」のテーマは何か。
僕はそれは、共同体が崩壊した後、人は突然に死んだ隣人を弔うことが出来るのだろうかというということだと思っている。
そして、死の比喩として草原にぽっかり空いた井戸の話が出てくるのだ。おそらく、それは必然的な挿話である。
引用してみよう。

直子がその井戸の話をしてくれた後では、僕はその井戸の姿なしには草原の風景を思い出すことができなくなってしまった。実際に目にしたわけではない井戸の姿が、僕の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。(中略)僕に唯一わかるのはそれがとにかく おそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が-世の中のあらゆる種類の暗黒を煮詰めたような濃厚な暗黒が-つまっている...

今まで隣を一緒に歩いていた恋人がいきなり深い井戸に堕ちてしまう(突然、死んでしまう)。残された者は、わけが分からずに、言うにいわれぬ喪失感を抱き、泣き、悲しむ。
しかし、現代人には死者を弔う作法が既にない。

日本人は長らく、村落共同体を基本にして生きてきた。そこでは共同体の作法を無視しては生きてはいけない。村八分という言葉があるが、仲間はずれになった家でも、火事の消化と葬式だけは付き合ってもらえたということだ。逆に言えば、村落にとって火事の類焼と死者の穢れを共同体の外へ捨てる儀式だけは、仲間はずれにされた家の問題というよりも共同体の問題として片付けなければならないと考えられたということなのである。
しかし、近代以降、多くの学生や労働者が都会へ出てきた。つまり、共同体の作法が希薄な世界に身を置くことになった。そして、そこで生じたのが(共同体ではなく)個々人が「死者を弔うことは可能なのか」という課題である。
そして、村上春樹の「ノルウェイの森」は、都市生活者にとっての隣人の唐突自死への対応の不可能を真正面から取り上げた小説である。
しかし、トラン・アン・ユンが解釈し、映画化した「ノルウェイの森」には、上記の草原の穴のエピソードはまるっと抜けていた。
なぜ、彼は映画でその場面を抜かしたのであろうか。
それが本エントリーのテーマである。

さて、ストーリーを簡単に追ってみよう。(とりあえず、本エントリーに不要な部分は、だいぶ省略していることをご了解下さい)
ワタナベとキズキと直子の3人は、高校時代いつも一緒にいた。キズキと直子は幼馴染であると同時に恋人でもある。だから、3人で一緒にいるとは言っても、その二人とワタナベの間には微妙な距離があった。ある日、キズキとワタナベがビリヤードをした夜にキズキはガス自殺をしてしまう。それは何の前触れも無く突然の出来事であった。
ワタナベはその日から、喪失感というよりも、逆に「ぼんやりとした空気のかたまりのようなもの」を抱えて生きていくようになる。そして彼は東京に出て、大学生となり漠然とした日々を生きている。
しかし、ある日、偶然に直子と再会するのだ。それ以来、徐々に、親しくなってゆく直子とワタナベ、そして直子の二十歳の誕生日に二人は寝るのである。
しかし、その後、直子はワタナベの前から姿を消し、京都の山奥の療養所に入ってしまう。
そして、数ヶ月後にワタナベはその療養所を訪れ、直子と再会し、直子からキズキとの秘密の話を聞く。
それは、直子はキズキとは一度もセックスをしていなかったということである。しかも、それは、しようとしなかったということではなく、直子の体が決してキズキを受け入れようとしなかったというのだ。
心では愛していても、体は拒絶してしまうというダブルバインド(心と体の分離状態)を気に病む直子。そしてキズキの死。
直子は、キズキの死を自分のせいであるという罪を背負って生きていたのである。
そんな直子の前に、キズキのとの思い出を共有しているワタナベが出現。
そして直子は、ワタナベとセックスをすることによって、つまり、ワタナベと一緒にキズキを裏切ることによって、罪、そして死の穢れを共有しようとするのだ。

しかし、その後、直子はワタナベにも体を開くことが出来なくなっていた。
つまり、直子は、キズキへの罪の意識に加えてワタナベへの罪の意識をも抱くようになる。そして、抱えきれなくなった時に、自らの命を絶ってしまうのだ。

東京で彼女の死を知らされたワタナベ。
彼はキズキの死と直子の死という二つの罪による穢れを負わされ、悲しみの中で放浪する。
そして東京に戻ると、京都の山奥の療養所で同室だったレイコさんがワタナベのアパートを訪ねてくる。
キズキの死を直子とワタナベが共有しているのと全く同じように、レイコさんはワタナベと直子の死を共有している友達である。
ワタナベとレイコさんは、直子とワタナベがしたように、寝る。
レイコさんは、ワタナベに「寝るべき」といい、ワタナベは拒絶できずに言われたままに、彼女と寝るのである。
おそらくレイコさんが、ワタナベの体に溜まったキズキと直子の死の穢れを、セックスという「共犯的儀式」によって自分の身にまとわせて、遠く(旭川)に去る(おそらく死ぬ)ことによって、ワタナベの罪と穢れを浄化しようとしたのだ。
トラン・アン・ユンにおける「ノルウェイの森」のテーマは共犯的セックスによる死者の弔い(罪と穢れの浄化)ということだと僕は解釈する。
実は、映画では、レイコさんがワタナベと半強制的に寝るように描かれているが、原作では違う。二人は、レイコさんが弾くビートルズの曲によって音楽葬を行い、その後、お互いの気持ちから出たセックスをするのである。
引用してみよう。

「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ。」と弾き終わったあとでレイコさんが小さな声で言った。
「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じこと考えていたんです。」

また、映画では、ワタナベが一方出来に旭川に遊びに行きます、というのだが、原作では、レイコさんが「いつか旭川に遊びに来てくれる?」と誘っているのである。
つまり、原作ではレイコさんとワタナベの性関係と、レイコさんの遠方への旅立ちには特別な意味が付与されていないようにも読めるのだが、それに対して映画では、レイコさんは自ら罪と穢れを引き受け、別世界に旅立とうとする、まさに自覚的な犠牲者としての役を担っているのである。

そして、最後のシーンにおいて、アパートの赤電話からすがるように電話をするワタナベに対して、「生の象徴」である緑が電話に出る。
それによって、ワタナベは死の穢れた場所から抜け出し、いつの間にか、生き生きとした世界に生まれ変わっていたことが示されるのだ。

緑がワタナベにたずねる。
「あなた今、どこにいるの?」
ワタナベが答える。
「僕はどこにいるんだ?」

さらにいえば、原作のラストシーンでは、ワタナベは人ごみの雑踏の中で電話をするという設定だったのに対して映画ではアパートからの電話という設定になっていた。
この設定変更においても、個々人がバラバラになってしまった現代社会における問題という僕が原作で特に意識したテーマは、トライ・アン・ユンはそれほど重要視はしていないということを読み取ることが出来るのではないだろうか。

共同体が崩壊した後の現代社会において、隣人の突然の死を弔うことは出来るのかという自問に対して、「どのような強さも愛する人を亡くした哀しみを癒すことは出来ない」と、絶対的な哀しみを抱えて生きざるを得ない、つまり弔いの不可能性を提示したのが村上春樹の「ノルウェイの森」だとすれば、トラン・アン・ユンの「ノルウェイの森」には、自殺に対する残された者の贖罪意識とその浄化という、敢えて言えば極めて西洋的なテーマが強く出た作品になっていたというのが僕の解釈だ。
つまり、草原の穴のエピソードを削除したのは、トラン・アン・ユンにとって、そのシーンはむしろ邪魔だったからだというのが僕の結論である。

そして、さらに言えば、彼の作品には、もう一つの「ノルウェーの森」、つまりビートルズの原曲も入る余地はなかった。
だから、エンドロールでしか流せなかったのである。

まさむね

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