閉館ラッシュにあえて自由のなかの不自由を思う

去年と今年に入ってから急増というほどではないと思うのだが、映画館やデパート、ホテルの閉館(リニューアル含めて)が続いている。デパートでは有楽町西武、ホテルでは赤坂プリンス。いずれも80年代のバブル時に興隆した施設だった。きっとなつかしいと思われる方も多いだろう。写真は去年暮れに有楽町西武が閉館したときに撮ったもの。今もこの表示パネルは残っていると思う。年々売上が落ちて、たしかピーク時の半分近くまで減っていたというから、閉館はある意味時代の必然ともいえるだろう。
 民間は閉館せざるを得ないわけだが、国の台所事情も似たようなものだと思うのだが、こちらは国を閉ざすことも止めることもできず、水増しされた国債の発行で自転車操業を続けている。国債も格下げされて、この先いつまで順調な(?)発行が続くやら、だが。国だけはいまだ滅びず、か。

 そんな中でひとしお個人的にも残念なのは、独立系の単館映画館(いわゆるミニシアター)の閉館ラッシュだ。これはまさに80年代のバブル時をふくめて、僕などのようにミニシアターのお世話になったものからすると残念至極。かつてよく通った六本木シネヴィヴァンも今はない(もう10年以上前に閉館)。そして今年に入って恵比寿ガーデンシネマがこの一月で閉館。シネセゾン渋谷も閉館予定。ここ3年で渋谷のミニシアターが8スクリーン消えたという。
 その背景として、映画関係者の言として取り上げられている記事を読むと、「シネコンで作品を選ぶのが当然の時代になってしまった」「観客が変質した」「若者がミニシアターやアート系映画に無関心になった」という。その真偽は分からない。ただわざわざ苦労してまでマニアックな映画を観に行かなくなっていることは事実かもしれない。最近の新卒学生の大企業への集中化の就職志向ともどこか重なるかもしれない。
 こうしたなかでふと思ったのは、自由のなかの不自由ということ。ネガティブなことも多いが、時代的にいえば依然として圧倒的にまだ自由な時代だ。何をするなとの規範がないとも言える。そうしたなかで人は何を観てもいいはずなのだが、逆にそういう時代だから画一的にみんなが観ているものを観るようになってしまう。

よく言われることなのだが改めてそんなことを思ったのは、まさにまだ残っている某ミニシアターで荒川修作さんという芸術家を題材に選んだ「死なない子供、荒川修作」という映画を見たからだ。荒川さんは岐阜の「養老天命反転地」などの建築とも芸術ともくくることのできないような非常に刺激的な作品を生み出してきたユニークな美術家・思想家だ。
この方が作り出した三鷹の集合住宅「天命反転住宅」が今回の映画の舞台なのだが、そこは住むには極めて異質で、ある意味不快な面を持つ住宅となっている。部屋のなかに砂利が敷き詰められていたり、球形の部屋になっていたり丸形の床だったりおよそ快適に住むという世界からは遠い。だが、そこで暮らしている人にとってまさにその不便さ・不自由さこそが逆に身体が本来持っていた自由さを引き出してある種の生の感覚を蘇らせてくれるのだという。住居人たちがその不思議な感覚についてインタビューで語っている。だから生命は「死なない」のだということ。
不思議なものだ。行き過ぎた自由がかえって逆に人を画一的(不自由)にし、不自由さが人に本来の自由さを取り戻させてくれること。そのための往来できるスイッチみたいなものをいつまでも持ち続けることが大事なのかもしれない。    

よしむね

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