蓮實的に言えば「まどか☆マギカ」は凡庸であり「フラクタル」は愚鈍かもしれない

先月、ハマった「魔法少女まどか☆マギカ」と「フラクタル」について、Twitter上でその違いに関して質問をしていたよしおさんから、その答えをいただいていたのだが、僕は、それに対する再返答を出せないで時間ばかりが経過していた。

そのよしおさんからの答えというのが、「m氏への手紙(「まどか☆マギカ」と「フラクタル」)」である。

よしおさんの上記文章を僕なりにまとめさせていただくと、、「まどか☆マギカ」には身体性と家族関係が希薄であり、しかもそのことに関して無自覚(よしおさんは「正直」という言葉で説明されていました)なのに対して、「フラクタル」のほうは、圧倒的なヴァーチャルな世界において、いかに身体性、そして、その身体性に裏打ちされた関係性を回復出来るのかという新しい問題を提起しているということである。

実は、僕はよしおさんのこの両作品の捉え方に若干のショックを受けた。正直言って、やられたという感じすら覚えた。確かにその通りだと...
そして、それに対して、どんな新たなる言葉を付け加えたらいいのか、この半月間、ボーッとした時間を過ごしてしまったのである。

「まどか☆マギカ」の気持ち良さに対して、「フラクタル」を観た後に感じたおぞましき気持ちの悪さこそ、この作品がアニメという超身体的な表現形態において、敢えて「身体性」というテーマを持とうとしてしまったがゆえに生じてしまっていた感覚だったのだということをよしおさんの文章で気づかされたにも関わらず、それをうまく言葉にできなかったのがこの半月間だったというのが今の僕の自己解釈である。

おそらく、「フラクタル」は、アニメファンに対して、「身体性」という異色な問題を提起するに際してあまりにも過激すぎたのかもしれない。父と娘とのおぞましき関係という、ある意味、身体性表現の”極北”を、突然持ち出されてしまったからだ。これが僕の「フラクタル」不評に関する現時点での分析である。(勿論、アニメファンの間には、それ以前にクソ!という方もたくさんいるようだが、それはここでは触れない。というか僕のようなアニメ素人には、その批判自体がよくわからない。)

しかし、この作品が持つ「身体性」は、同時に、この作品の可能性として評価すべきというよしおさんの指摘ももっともなのである。そのあたりは僕にもわかるような気がするのだ。

そしてそれは一方に「まどか☆マギカ」を対置してみることによって、より鮮明になるようにも思える。確かに、「まどか☆マギカ」は、身体性とは真逆に位置するヴァーチャルリアルの究極的な作品だからである。
最終回で見せたMADOKAとHOMURAの戦闘継続への意思表明は、精神的(ピュア)なものだ。完成された新体操の演技が逆に肉体を感じさせないのと同じように、完璧であるがゆえに、そこに痛みを感じさせないのである。あるいは、「身体性」を巧妙に消し去ることによって、アニメとしての完成度を上げたという言い方も出来るのかもしれない。

問題はこの「まどか☆マギカ」の完全性が逆に、未来を感じさせないものになってしまっていることだ。これは、すがりさん山野車輪さんがTwitter上で言われていたことにも通じる、この作品が特権的に持ってしまったパラドクスなのである。

さて、以前、評論家の宇野常寛氏はニコ生PLANETS増刊号 徹底評論「魔法少女まどか☆マギカ」において「フラクタル」は80年代に戻ろうとする野心作という話をしていたのだが、実は、僕はその時は、その80年代という意味がよくわからなかった。

僕は先月、「まどか☆マギカ」の素直な神と「フラクタル」のゆがんだ神の決着はそんなに簡単ではないのではないかというエントリーに、こんなことを書いている。

そして、宇野氏が、この「フラクタル」を80年代回帰の物語だというのは、いわゆるこの物語が、二つの異なる価値観を持つ集団同士の戦いを描いているという意味であろうか。
つまり、物語を、80年代という資本主義と共産主義がこの世界の支配権を賭けて闘っていた時代の物語構造に回帰させるということなのだろうか。

しかし、実は最近、この80年代という時代を自分の頭の中で思想的に振り返ってみる機会があり、すると、80年代とはいかに「外部」に出るかというテーマがあった時代でもあったということを思い出したのである。
例えば、浅田彰の「逃走論」しかり、柄谷行人の「隠喩としての建築」しかり、蓮實重彦の「物語批判序説」しかり...、それらは、究極的にはいかに「外部」に出られるのか、という話であったではなかったのか。
勿論、この「外部」というのは僕も完全に咀嚼して使えている言葉ではないのだが、それは、世界の不可避的な矛盾を自覚するところから見えてくる風景であることは確かである。さらにそれは、システムの内部において完璧に立ち振るまう行為とは無縁な、モノそのもの(システムの外)に触れるようなまがまがしい体験によってこそ、得られる瞬間に違いないということなのである。
思い切って、蓮實重彦の言葉を援用するならば、「まどか☆マギカ」は凡庸であり、「フラクタル」は愚鈍ということになるのだろろうか。

さて、僕は、先ほど述べたように、この半月間、よしおさんの「m氏への手紙(「まどか☆マギカ」と「フラクタル」)」に対する回答に対して、なんの言葉をも持てなかったのだが、とりあえず、上記のような文章を書くことにヒントをくれたのが、これまたTwitterで知り合ったうわんの影さんとのやりとりであった。
そのきっかけは、彼が「子供の頃(学生の頃?)に行った青森旅行で偶然入ったおもちゃ屋が、すべての商品を定価で売ってて時間の無駄だと思った」という何気ないツイートである。

なるほどそうだ!
人間とは、きちんとプロデュースされたイベントや、コストパフォーマンスの優れた商品、すなわちシステム内の優秀さのみに満足する生き物ではないのだ。
そんなシステムとは無縁な「現実」に触れ合った瞬間にこそ、本当の面白味を感じるものであり、また、そんな体験だけが、心の底にこびりつくのである。
そして、どちらかといえば、僕は「まどか☆マギカ」よりも「フラクタル」のほうに、そんな「現実」を感じたのである。おそらく、その「現実」はよしおさんがいうところの「身体性」ともどこかで通底しているような気がする。
勿論、これは僕のドタカンであるが。

なんか、話がだいぶズレてしまった、いや、もしかしたらズレていないのかもしれない。
よくわからないが、僕は、こんなことを最近、考えている。

まさむね

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