「あの花」におけるめんまによる救済を、実は僕らも求めているのではないか

3.11の東北東日本大震災以降、各人にとって何が大事なのかということを、僕らはそれぞれ考え始めている。

直接被災された地域の方々のことを考えると本当に胸が痛むが、そこから敢えて教訓のようなものをいただくとしたら、大事なものとは、「人と人との絆」ということなのだということを、改めて思う。
しかし、いざというときのために、普段から、いか他人との信頼関係を築いておくのかということ...現代人にとっては簡単そうで実は、なかなか難しいテーマがここにはあるような気がする。

日本は、明治以来、結果として、そういった信頼関係(地縁、血縁コミュニティ)が無くても生きていけるような社会を目指してきた。それが近代化というものだ。そして、その近代化の果実としての自由や便利さといったものと引き換えに多くのものを失ってきてしまったのである。

いまさら、他人との絆を取り戻そうと言われても、どこから、どうしたらいいのだろうか...

先月まで放送されていた深夜アニメの「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(通称:あの花)は、「絆とは、何か?」という漠然としたテーマ、しかし、現代日本人にとって最も大事なテーマについて改めて考えさせてくれる良質な作品であった。

幼馴染6人組(男3人、女3人)が、夏のある日、その中の一人の女の子(めんま)の突然の事故死によって、それまでの固い結束が崩れ、なんとなく、個々人がその事故の精神的後遺症(トラウマ)を抱えながら、過ごす高校一年生の夏に、亡くなったはずの女の子が突然、その中のリーダーだった男の子(仁太)の前に姿を現し、「願い事を叶えてほしい」と告げるところから始まる。

場所は、埼玉県の秩父である。
ちなみに秩父は池袋に出るのにはちょっと遠い、関東平野のどん詰まりの地。市街地からちょっと離れると里山が広がっており、秩父三十四ヶ所観音霊場で有名な、いわゆる山霊の里としても知られている場所、そして同時に、日本史以来最大の民衆の反乱事件=秩父事件の発祥地でもある。

そんな土地で生まれた少年・少女達がいかにして、かつての栄光の絆を取り戻すのか、僕はこの「あの花」をそういった視点でもう一度見直してみたかったのである。

さて、物語は、突然現れた幽霊のめんま(仁太にだけ見える)のお願いとは何なのかを、仁太が考え始めるところから、展開する。そして、いやいやながら、かつての幼馴染と連絡を取り、それをみんなで考え、解決していくというストーリーである。
しかし、物事はそう簡単ではない。実はかつてリーダーだった仁太は今は、登校拒否の引き篭もり生活をしているのだ。そしてそれぞれのメンバーも、今では別々の生活を送り、そこにはもう「絆」と呼べるようなものはなかったのである。
それどころか、それぞれは、あの忌まわしい事故によって、何かを喪失し、閉塞的な日常を送っているのだ。(幼馴染達の閉塞状況に関する詳細は別のエントリー「深夜アニメ『あの花』で描かれたフロイト的人間観の可能性」で書かせていただいたのでご興味のある方はコチラをご覧下さい。)

さて、めんまのお願いを叶えようとする過程で、それぞれの内側に秘めたエゴイスティックな想い、変体趣味、コンプレックス、そして恋愛感情を爆発させる幼馴染達。しかし、最終的に、彼らは、それまでの殻を脱ぎ捨て、裸の人間となってお互いが向き合うことで、新しい絆を構築していこうとする。「あの花」はそんな物語なのである。
       ★
最終回の後半、この物語は怒涛のようなラストをむかえる。

思い出が詰まった秘密基地に集まった幼馴染達だが、それまでは仁太にだけは見えていたはずのめんまの姿が見えない。
めんまを探しに山に飛び出る仁太、それを追う幼馴染達。

そこから、全員で、里山を走り回ってめんまを探す夜通しのかくれんぼが始まるのである。
そしてついに朝になってしまうのだが、それでもめんまは見つからない。
しかし、フッと見ると、地面にはめんまから、各人へへ宛てた「大好き」のメッセージが書かれた日記の切れ端が残されていた。
一人一人、めんまからのメッセージを読み、涙する幼馴染達。もう、つまらないわだかまりやエゴは無かった...

実は、この瞬間こそが、めんまのお願いが成就した瞬間だったのである。
つまり、めんまのお願いとは、かつて、バラバラになってしまった仲間の絆の再構築だったのだ。

そして、その瞬間、それまで仁太にしか見えていなかっためんまが、他のメンバーに見えたのである。
しかし、残酷にも、まさにその瞬間、めんまは朝日の中で、徐々に消えていく。なぜなら、願いの成就=成仏を意味するからだ。

そしてみんなは気づく。
「そうだ、あの夏の日、めんまは事故によって死んでしまったのではなかったのだ、かくれんぼをして隠れていただけだったのだ!!」
「めんま!み~つけた!!」一斉に叫ぶ、幼馴染達。

そして、めんまは朝日の中で消えていく。
そこには花瓶にさした花だけが残る...

あの日に亡くなっためんまは、これからも、名も無き花として、いつでもみんなのそばにいて、みんなが絆を持ち続けることを願っているに違いないのである。
        ★
おそらく、日本人は、身の回りにあるかわいらしい花や小鳥、そして土地や風に対してでも、独特の愛情を持ち続けてきた民族である。だからこそ、「あの花」を観て、違和感なく、涙できる民族なのである。
その意味で、敢えて極論するのであれば、「あの花」は、太古の昔から連綿と続く日本人のDNAを呼び覚ますような作品の一つだったと言えるであろう。この物語が、太古からの人々の生活が営まれてきた土地・秩父を舞台にした根拠の一つがここにあるのだと思う。

勿論、このアニメの結末を、あまりにも美しすぎるという批判もあるのかもしれない。そんな方は、このアニメの陰画として次の歌を声をだして詠んでみればいい。

かくれんぼの鬼 解かれざる まま老いて 誰をさがしにくる村祭

 

これは、青森生れのアーティスト・寺山修司の不気味な歌だが、日本文化は一方で「あの花」というファンタジーを生み出しながら、一方で、「寺山修司という邪悪」を生み出すほど豊潤で多様な国なのである、とも言えなくはないだろうか。
あるいは、この寺山の短歌が詠まれた時代と「あの花」が放映された現代との間に横たわる40年余りの歳月に、個人と共同体の関係性の落差を感じることも出来るかも知れない。一方では、かくれんぼにおいて放置された鬼が突然、復讐しに現れるという、共同体への怨念歌なのに対して、他方では、その鬼自体が、共同体再生のための契機になっているからである。
        ★
さて、最後にこれはうがち過ぎかもしれないが、僕はこの「あの花」を観て、幼馴染達の境遇はちょうど、現代の日本とも重ね合わせて観てしまった、ということも付け加えておきたい。

今から66年前、日本という国が総力を上げて闘い、そして敗れた戦争があった。
そして、戦後、欺瞞的な物語によって、贖罪意識を植え付けられてきた日本人。
その物語とは、日本が一方的に悪かったという物語であり、しかもそれは、一部の軍部=権力者だけが悪い戦争だったという嘘の物語である。
もちろん、その物語の土台の上に、戦後の日本が奇跡的な発展を遂げたのは事実だろう。
しかし、一方で、その欺瞞がある限り、現在のような危機の時に、その原因を自分達で引き受けるのではなく、”お上”にかぶせようとし続けててしまうのではないだろうか。

もしかしたら、僕らは先の戦争の贖罪意識をどこかで浄化したい、あるいは、してもらいたがっているのかもしれない。
それはちょうど、「あの花」において、幼馴染達がめんまに感じていた贖罪意識を、めんまによる「みんな大好き!!」という言葉によって浄化してもらったように。

ただ、それがいいことなのか、悪いことなのかは、僕にはまだわからない。

まさむね

参考エントリー「深夜アニメ『あの花』で描かれたフロイト的人間観の可能性
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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