3.11震災後に観た、初めての「新世紀エヴァンゲリオン」

僕が自分の中で勝手に、アニメ修行の一つの山場と位置づけていた「新世紀エヴァンゲリオン」TVシリーズを昨日から今日にかけて完観した。

多くの方に、観るべきアニメの筆頭格として、推薦いただいた、この作品ではあったが、26話という長い作品であること、いろんな意味で「深い」作品であることという噂話に若干、及び腰であったことは確かだ。しかし、いつかは観ないことには、始まらないということで、失業中の今しかないと思い、観る決心をしたのであった。

しかし、実のところ、僕は1997年に劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(通称:春エヴァ)は、吉祥寺で観ているのだ。しかも贅沢なことに、あの竹熊健太郎さんに連れて行ってもらってというオマケ付でである。当時、竹熊さんは既に、エヴァ語りの第一人者として著名であったが、その竹熊さんから、是非、観たほうがいいとのオススメがあって、劇場に足を運んだのだ。
しかし、残念ながら、その劇場版は、TVシリーズを観ていなかった僕にとっては、何がなんだか全く理解不能のものであった。
ただ、映像の途中で映画の観客席を挿入するなど、おそらく今までのエンタテイメントアニメとは一線を画すメタ的(観客への挑発的)な視線は面白いなぁと思ったのも事実だ。
ちなみに、この映画、最後のシーンで、「気持ち悪い」というアスカの声で唐突に終わるわけであるが、幕が下りて劇場の電気がついた瞬間に、「どうでした西村さん」と言って、僕の顔を覗いた竹熊さんの恐い顔のほうが印象に残っている。

さて、それはともかく、今観たばかりの「エヴァンゲリオン」についての感想を書いてみたいと思う。
先ほども述べたが、それは、15年遅れの感想である。
しかし、逆に、15年遅れたがゆえに、僕には、この間の日本の変化が見えてきたようにも思うのだ。

PCや携帯電話といった通信機器のどうしようもない古さ、ミサトや加持のバブルの尾を引きづったファッションやライフスタイル、オープニング曲「残酷な天使のテーゼ」の90年代風味など、個別の時代的制約については別途語るとして、ここでは、「エヴァ」によって描かれていた、あの時代の未来に対する希望と絶望が、現在の目に一体、どのように写るのだろうかということに関して語ってみたいと思う。それがこのエントリーのテーマである。

おそらく、世紀末のあの時代、僕らは心のどこかに、ハルマゲドン願望(不安)というものを持っていた。
当時は、「終わらない日常」が、突然、ある種のカタストロフで崩壊した後の再生物語こそ、SFの重大なテーマとなる、そんな時代だったのである。
そして、「エヴァ」もそういったテーマ線上の作品である。セカンドインパクトと呼ばれた南極地域の大爆発によって、その氷が解け、地球上の多くの街は水没し、人口は激減した後の世界。使徒と呼ばれる謎の敵が襲来してくる、それに対して国連はNERV(ネルフ)という秘密組織においてエヴァンゲリオンというロボットを作り、その敵の襲来に備えている。そして、そのロボットのパイロットとして、特別な少年や少女が選ばれている...それが「エヴァ」の設定である。

主人公の碇シンジという少年もその選ばれたパイロットの一人だ。
そして、実は、彼は、このNERVの総司令である父親によってネグレクトされた子供であった。しかし、彼がパイロットに選ばれたのは、このエヴァンゲリオンというロボットは、波長(シンクロ率)が高い少年少女でないと操縦できないシステムになっているからである。
しかし、シンジは、自分がロボットに乗って戦わなければならないという運命を受け入れることがなかなか出来ない。何度も逃げようとするのだ。そして、彼はどうしても、自分の幼少期のトラウマ(母親の死と父親からのネグレクト)から逃れることが出来ず、自分とは一体何なのか、何をすべきなのか、という根源的な自我の問題に悩み続けるのである。

おそらく、15年前にこの「エヴァ」が大ブームとなった背景には、こういったシンジのような心に傷を持つ人々のアイデンティティの揺らぎが表面化してきた時代があった。いわゆるアダルトチルドレンが問題となった時期。1996年といえば、ちょうどこの言葉が流行語となった年なのである。

しかし、あれから、15年。結局、ハルマゲドンは来ることはなく、それゆえに、そこからの再生物語も無く、日本は徐々に衰退という坂道をダラダラ下るというサイテーのシナリオを歩んでいる。そして、経済的にもデフレ不況が続き、子供達の多くはアダルトチルドレンから、引きこもりへと更に衰弱しているようにも思える。
シンジは作品の中で何度も「逃げちゃダメだ」と言いながら、自分を奮い立たせ、そして、自分しかエヴァを操縦出来ないという、ある意味、特権的なシチュエーションによって自我の崩壊を食い止めている。
しかし、現代の若者に、こういったシンジ的闘争心や、特権的な場所への希望は残っているのだろうか。
いや、おそらく、いい悪いは別にして、あの時代よりも、学校をはじめとする社会は、「逃げる」ということに対してより寛容な、そして「傷つく」リスクに対して、より優しい社会になっているのではないだろうか。例えば、象徴的に言えば、それは「エヴァ」における碇ゲンドウの冷徹さと、「あの日見た花の名前は誰も知らない」におけるジンタンの父親の気楽さとの落差である。

そして、これからどんどん収縮していくことが予想される社会の中で、せめても自分が生きていく場所を確保するのに汲々とする社会というのが、若者達の未来像になってしまっているのではないだろうか。現代からの視点からすれば、エヴァ的アイデンティティ問題というのは、ある意味、裕福だった時代の贅沢な悩みとも言えるのかもしれない。
極論するならば、現代とは、生きていかなければならないという切実な問題の前に、シンジ的な悩みは後退してしまっている時代なのである。(勿論、その悩みは解決したわけではないが。)

しかも、一方で、誰もエヴァに乗り、世界を救うなどという、ある意味、特権的な場所に対する希望も、使命も持てなくなっているのが現状である。はたして、シンジの特権に対して現代の僕らは、共感を、そして共有意識を持てるだろうか。
更に言えば、シンジの特権は、NERVという国連の特務機関という大きなシステムに保障されている特権である。
おそらく、あの時代、日本の一般の人々は、まだそういった大きなシステムに対して信頼感を持ち、そのシステムには優秀な人々が勤務しており、使命感を持って一般人を守ってくれているハズという共通認識があってこそ、NERVという架空の組織はリアリティを持ちえたのではないだろうか。
良し悪しは別にしてシンジの父親・碇ゲンドウの冷徹な指導力、ミサトやリツコ、その他、スタッフの優秀さ、そして科学技術への信頼感のリアリティがあの時代にはあった。しかし、1996年以降の多くの企業の倒産、失墜、そしてダメ押しとしての3.11の地震の後の政府や東電の醜態を見てしまった僕らにとっては、もうそういうある意味、幸せな幻想は持ち得ない過去のものになってしまったような気がする。
僕らが漠然と信頼していた日本の科学技術力、組織力、システム力が、いかに脆弱だったのか。震災の後遺症は、ただ、津波によって街が破壊されたことや、原発事故が起きてしまった事以上に、僕らが依存していたシステムがいかにダメなシステムだったのかがわかってしまったという精神的ダメージのほうが大きいのではないだろうか。

話は逸れるが、おそらく、今後、特権的な場所があるとすれば、それは大きな組織の中のある場所というよりも、インターネット上で、個々が別々に見つけ出すニッチな場所でのささやかな特権になるだろう。無数のジャンルが生息する場所(SNS)で、自分のユニークで居心地のよい場所を見つけるような生き方が今後の成功モデルだとすれば、そんな現実の反映としてのSFアニメにこそ、今後生まれてきそうな気もする。

さて、最後にさらに身も蓋もない話であるが、エヴァの時代に、僕ら一般国民はそれほどの逼迫した問題として捉えていなかった経済が、この15年間に大きく後退してしまったということが、僕のこの15年遅れの感想にも大きく影響を与えているということを付け加えなければならない。
勿論、あの時代において、既にバブルは崩壊しており、経済は下降線をたどっていたのは事実だろう。しかし、日本はそれまでの余力によって、体感的にはなんとか、現状維持を続けていた。不良債権問題は傷みとしては表面化せず、財政赤字も国債によって隠蔽されていた。つまり、どこかに経済成長神話が生きていたのがあの時代なのである。

それゆえに、「エヴァの世界」は、人口が半減した世界であっても経済は依然として成長し続けているという、現在の感覚であれば荒唐無稽な前提が素朴に生きている世界のようにも見えるのだ。現在の経済感覚からすると、例えば、NERVの贅沢で放漫な財政感覚にはとうていリアリティを感じることが出来ない。大きな要塞、地下都市、巨大ロボット、巨大コンピュータ、どれをとっても、おそらく「2011年の想像力」からは紡ぎ出せないような規模のものなのである。
勿論、これはSFだからといういい方は出来るのだが、ある時代のSFは当然、その時代の空気を反映しているのものだ。1949年に書かれたジョージオーエルの「1984年」はスターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家のイメージが下敷きになっているし、1984年に書かれたウィリアムギブスンの「ニューロマンサー」には当時、勢いがあった日本への恐怖心が垣間見られる。

その意味で、原発事故に象徴されるような科学や組織、システム、経済に対する信頼が失われた日本からは、今後しばらく、エヴァのような壮大な科学SFは生れないのではないだろうか。

逆に「魔法少女まどか☆マギカ」のような地球外生命体の圧倒的な力と魔法少女の個人的奮戦、「あの日見た花の名前は誰も知らない」のようなジモピー的共同体の再生の物語は、現代だからこそ生まれる「2011年の想像力」の産物としてリアリティを持っているのである。

まさむね

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