僕が違和感を感じたシンジ的悩みについてもう少し詳しく書いてみた

「新世紀エヴァンゲリオン」は様々な問題を内包した優れて豊潤な作品であるが、ここでは、とりあえず、碇シンジの「悩み」に、2011年の僕らは共感できるのだろかという点に関して、再度語ってみたいと思う。

僕がこの「エヴァ」を観て、感じた違和感は、主人公・碇シンジがエヴァ初号機に乗る動機である。彼は何故、あれほど嫌がっていたエヴァに乗り続けるのであろうかという疑問と言い換えてもいいかもしれない。

一体、彼の行動を支えている原理=倫理観は何なのだろうか。その動機は何なのであろうか。
彼は、子供の頃に、父親・碇ゲンドウに捨てられる。いわゆるネグレクトを受けた少年である。そのため、性格は内向的で、人付き合いが苦手である。そんな彼が、突然、国連の特務機関・NERVに召集され、エヴァのパイロットとして、「彼にしか出来ない」任務を任されるところからエヴァは始まるのである。

一方、彼を捨てた父・ゲンドウは、このNERVの総司令という立場で、冷徹な人間である。彼はシンジにエヴァに乗るように命令するが、決して押し付けようとはしない、嫌であれば去れ!という態度である。

それに対して、シンジは、自分自身に「逃げちゃダメだ」と言い聞かせて、エヴァの操縦桿を握る。おそらく、シンジは、父親から承認してもらいたい一心で、エヴァに乗り続けるのである。その姿は、ある意味では痛々しい。

しかし、彼は自問自答を繰り返していく中で、本当の自分とは何なのか、自分は本来何をすべきなのかというようなアイデンティティに関わるような悩みに行き着く。TVシリーズの25話、26話はほとんど、そんなシンジの心象風景が描かれる。
エヴァが特異な作品であるのは、ロボットアニメが内面描写の私小説になってしまうその変容の異常さからである。

1996年~1997年、エヴァは、、一大ブームとなる。夕方の子供向けアニメとしては極めて異例な状況である。例えば、地上波の番組の中でもしばしばタレント達によってエヴァという名前が口にされた。例えば、同年の大ヒットしたトレンディドラマ「ラブジェネレーション」にはエヴァ大ファンの青年が登場するし、翌年1998年にデビューし、その後、一大ブレイクを果たしたモーニング娘。はASAYANというオーディション番組から登場したが、メンバーの中でも最も人気のあった安部なつみ(右画)は、初めてのスタジオ登場時に、ナイナイの岡村隆史、つんく、永作博美達に、綾波にそっくりだとイジられている。極論するならば、モーニング娘。大ブレイクの隠し味としてエヴァの残像があったということが言えるのかもしれない。

それはともかく、エヴァブームとは、作品の異常さ以上に、作品が置かれた状況と作品の中身の乖離の異常さにあったというのは確かであろう。前のエントリーにも書いたが、1996年は、アダルトチルドレンという言葉がマスコミを賑わし、流行語となった年である。
幼少期に両親との関係になんらかの心的外傷を負った子供達の行動が注目され、社会問題となったのがこの頃。
15歳だった少年が起こした神戸連続児童殺傷事件が起きたのが1997年である。

当時、多くの人々が、実際に起きた少年事件と「エヴァ」のシンジをリンクさせて語っていたのを覚えている。

そして、その後、拓銀が破綻、山一ショックが起き、日本経済の綻びが誰の目にも明らかになる。今までのように、普通に勉強して普通にいい学校、いい会社に就職すれば幸せになれるという王道パターンにかげりが見えたのがこの頃である。つまり、親が子供に対して、勉強しなさいという言葉の説得力を失い始めたのがこの頃ということである。
一方、学校教育界でも、いわゆる「ゆとり教育」が本格的に始動。1996年に学習指導要領に記載された、学習内容及び授業時数の削減、完全学校週5日制の実施、「絶対評価」などの項目は、2002年から本格的に導入される。

大雑把に言ってしまうならば、子供を取り巻く、環境がどんどんゆるくなっていったのが世紀末からゼロ年代にかけてということは言えるのだろうと思う。
「ゆとり教育」というのは、追い詰められて、逃げ場を失う少年を社会的に救済しようとする政策なのである。つまり、それ以前であれば、「逃げちゃダメ」と自分に言い聞かせることによって苦悩する子供達に、「逃げてもいいんだよ」という価値観を与えたのが「ゆとり教育」であるという言い方も出来るかもしれないのだ。

一方で、携帯電話やネットが普及するのもこの時期である。子供達はそれまでに比べると格段の情報を瞬時に得られるような環境が出来てくるわけだ。
それは勿論、素晴らしいことであるが、逆に言えば、自分の限界を知らされるということでもある。正規社員と非正規社員の格差問題、地方と都会の格差問題、親の年収による格差などが現実問題として、子供達に対して、徐々に諦観を植えつけるようになっていったのである。

例えば、政治の世界では、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山と続き、二世三世議員しかトップになれないというような状況が人々に見せ付けられてきたのだ。

長引く不況とあいまって、子供達の中には、将来は「何者かになれる」という希望が、段々しぼんでいったのも当然のことであろう。

そんな状況の変化の中で、おそらくエヴァにおける碇シンジの悩みは、徐々に人々に共感を得られにくくなってきたのではないだろうかというのが僕の仮説である。
よく考えてみれば、シンジが置かれた位置はあまりにも特権的だ。確かに、幼少期のトラウマは、不幸には違いないが、その代償として、世界でたった一人、世界を救うことが出来る能力を持つ少年としての場所が約束されているのだ。
多くの若者が、「ゆとり教育」の中で、漠然とした夢(世界でたった一人だけの君)だけを与えられながら、実際は、「何にもなれない自分」を突きつけられる現実の中で、自分しか世界を救えないなどという最高の場所が天分によって与えられているにも関わらず、満たされない少年というシンジの設定はいかにも、贅沢なのではないのだろうか。

「何ににもなれないその他大勢」から見たら、シンジの立場はなんとうらやましいなことか。「僕って何?」という言葉のなんと特権的なことか...ということである。

これが、僕が15年遅れで「エヴァ」におけるシンジの悩みに感じた違和感である。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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