「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」 人類補完計画VS日常

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を続けて視聴した。
両作とも2007年の公開で、テレビシリーズを再構築し、劇場版にした作品である。

基本的な流れはテレビシリーズと同じであるが、映像のクォリティは、テレビシリーズはもとより、1997年の劇場版に比べても、もの凄く向上している。
これには驚いた。
この間の約10年の間の技術的進歩は目を見張るものがある。特に実写をベースとした背景画のリアリティと動きの滑らかさは格別だ。
おそらく、これを観るだけでも、価値のある作品。さすが、庵野監督である。

一方で、ストーリーは、時間が短くなった分、カットされた場面も多く、また登場時間が少なくなったキャラクタ、性格が若干変化したキャラクタ、新登場のキャラクタもあり、その変化が、1997年と2007年の時差を物語っているようで興味深かった。

登場時間が少なくなったのは、加持リョウジと鈴原トウジといったいわゆる明るい「リア充」系の男性キャラクタ。テレビ版ではアスカは二人との間に、憧れ、敵対といったようなわかりやすい関係があったのだが、その両方とも新劇場版では無くなっている。それに平行してアスカの存在感が微妙に減っているのが新劇場版の特徴だ。
それどころか、微妙にシンジに対する恋愛感情(レイへの嫉妬心)をも表現されており、これは、1997年の「夏エヴァ」最後の「気持ち悪い」という、ある意味、アニメ史に残るようなアスカの名セリフの再構築への期待はしないほうがいいということの暗示なのだろうか。
また、テレビシリーズでは、存在感があったミサトも最小限の登場。勿論、重要な役割には変わりないのだが、いわゆるバブリーキャラとしての言動は激減しているのだ。
ようするに、全体としては、加持、鈴原、アスカ、ミサトという元気なリア充キャラが後退したというのが僕の新劇場版の正直な印象である。

一方、より存在感を増したのが綾波レイである。確かに、僕が昨年関わったコスプレイベントでも、綾波レイの姿をした少女をよく見かけた。おそらく、ゼロ年代のアニメ界周辺に最も大きな影響を与えたキャラということが言えるのかもしれない。
アニメ修行中の僕が観た範囲でも、「化物語」の戦場ヶ原、「魔法使いまどか☆マギカ」のHOMURA、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」のつる子といった感情を表に表さない少女の系譜には綾波の影響があるのは、おそらく、僕が言うまでもなく、間違いないことなのだろう。
しかし、その綾波レイにしても、旧作と比べると、より人間的に描かれているようにも思える。シンジとゲンドウとの間を取り持つために、自分が料理をして、食事会を企画したり、また、テレビシリーズで物議を醸したらしい長すぎるアスカと二人っきりのエレベータシーンにおいても、別れ際にアスカに対して、シンジへの愛情をほのめかしたりというように、表面的には冷たいが、内面には想うとことがあるという、よりベタなキャラへの微妙な変化は、この間(1997年~2007年)のマーケッティング結果の反映ということなのだろうか。いずれにしても、旧作に比べると親しみやすくなったのは事実である。

また、キャラ的にほとんど変化がないのが、碇ゲンドウだ。僕は「エヴァ」と他のゼロ年代のアニメを分ける大きな点は、この碇ゲンドウ(的キャラ)が存在するかしないかだと思っている。少なくとも僕が見た限り、彼の遺伝子を引き継ぐキャラクタをゼロ年代アニメに見つけることはなかなか難しい(これについては今後も見ていきますが)。
おそらく、1990年代の後半においてもいささかアナクロな存在であった碇ゲンドウ。彼の冷徹さが、シンジのコンプレックスに満ちた性格の源泉になっているという意味では、重要な存在なのであるが、いまや、この「ベタに強い父」というキャラは絶滅種と言ってもいいのかもしれない。ある意味残念だ。

そして、上記の人々に囲まれた碇シンジであるが、基本的には旧作とは変わっていないように思える。父親に捨てられたというコンプレックスを軸にして、内向的で人付き合いが下手。一方で、そんな自分を嫌悪しており、なんとか改善したいと考えている。おそらく、この揺らぎが、シンジのシンジたる所以なのであろう。
旧作では、時にキレたり、暴れたりしながらも、結局は、情けない男(サイテーの男)のままに終わるという、ある意味、画期的な主人公を演じたシンジではあるが、少なくとも「破」では、命がけで綾波レイを助けようとしする姿を見せたところで終わっている。
今後、どうなっていくのであろうか。急(Q)+αが待たれるところだ。

さてそのシンジだが、ミサトやアスカとの共同生活では、料理や掃除といった家庭的な一面を持っているところに僕は思わず注目してしまった。
これは僕の勘なのであるが、シンジにおける家庭的な少年というキャラクタ設定は、エヴァ以降のアニメの少年キャラに大きな影響を与えているような気がする。例えば、「あの花」のジンタンや「輪るピングドラム」の晶馬、そして「まどマギ」におけるまどかの父親など、料理を作る男性があまりにも自然に登場するのが昨今のアニメである。さらに言えば「フラクタル」の主人公・クレインも最終的に料理を作る男となるところで話が終わる。
現実世界では、実際に料理を作る男性というのは増えているのかどうかは、僕にはよくわからないが、アニメというものが現実世界の願望の現われだとすると、この男達のエプロン姿というは、もしかしたら、女性が男性に求める像という以上に、男性が自ら潜在的に願望している男性像なのかもしれないと思った。

また、それまでは感情が無かった綾波と、感情表現が激しすぎるアスカの両少女が料理というものを通して、成長を見せるという「破」までの展開も含めて考えると、料理を作る、食べるといったことに代表される日常のささやかな営みの積み重ねが人間関係(絆)を構築し、その連鎖が幸せなのだという幸福感が、今後の「急(Q)」以降どのように発展するのか、あるいは破壊されるのかというのが興味深い。

旧作の大きなテーマであった、コンプレックスを抱えた登場人物達が人類補完計画という大きな夢によって一気に救済されうるのかという問題設定は、確かに2011年現在では古くなっているようにも思えるのだが、そのまま日常が勝利してしまうようなオチになるのは寂しい。

人類補完計画に代表される大きな物語が勝利するのか、それとも日常という小さな物語の積み重ねが勝利するのか。エヴァを舞台にしたこの両者の幸福論の闘いは興味深い。僕は個人的には、庵野監督による予定調和への挑戦、つまり日常の破壊という展開に期待したい。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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