「魔女の宅急便」 何故、キキは突然、空を飛べなくなってしまったのだろうか

宮崎駿監督の「魔女の宅急便」を観た。
この作品も、「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」などと並んで、80年代を代表する宮崎アニメの一つである。
アニメファンに限らず、ほとんどの日本人はこのアニメを知っているだろう。言うまでもなく日本を代表するアニメだ。

しかし、この作品も、僕にとっては今日が初見であった。今まで、何度もテレビなどで観る機会があったが、スルーしてしまっていたのだ。
それほど、自分はアニメに対して偏見を持っていたということである。今、思えば、誠に恥ずかしい話である。

さて、「魔女の宅急便」の内容に話を進めたいと思う。
とにかく、細かいところが美しいアニメである。特に主人公の少女の魔女・キキが箒に乗って、空を飛ぶ瞬間、彼女の髪の毛、そしてスカートを捲り上げる風の表現は素晴らしいの一言だ。
それまで、こんなに美しく風を描いたアニメーターはいたのであろうか。
さらに、キキが修行のため、暮らす、その街の街並みが美しいこと。
もしかしたら、戦前の日本にも独自に美しい街はあったのだろうが、戦後、どんどん高層ビルやマンションが立ち、目立ちたいだけの看板が乱立することによって、すっかり美観は失われてしまった。それに対して、ここで描かれている街(おそらくヨーロッパの街をモデルにした街かと思われるが)の統一的な美しさは、素晴らしい。特に、キキが空を飛ぶその目線で街が映し出されていく、その景色の移り変わりは、本当に楽しい。
確か、「国家の品格」(藤原正彦)に、美しい環境からこそ、斬新な学問や文化が生まれるというようなことが書かれていたかと思うが、その説が正しいとするならば、この街は、きっと素晴らしい科学者を沢山生み出しているに違いない。そんなことをすら想像させてくれる。
勿論、キキのかわいさも格別だ。特に、挨拶をするときに、頭を下げるのではなく、ひざをちょっと曲げるその仕草は、ヨーロッパの貴婦人を思わせる。とにかくカワイイ。

さて、それでは次にストーリーについて語ってみたい。
この物語における最大の山場は、急に空を飛べなくなったキキが、それを克服していくというところである。

それでは、キキは何故、空を飛べなくなってしまったのだろうか。

まずは、魔法使いという存在は、人間が空を飛びたいと願う、その願望が生み出したものだからという解釈である。それゆえに、飛行船という新しい技術によって、人間が空を飛べるようになると、魔法使いという、人間が生み出した願望=夢は必要なくなってしまうのである。
つまり、科学技術の進歩というものは実は、人間の想像力を、ある意味で萎えさせてしまうのだ。そして、それは、(別に洒落ではないが)キキにとっての危機なのである。
街に不時着した飛行船が、飛べるようになった瞬間に、キキは飛べなくなってしまい、逆に、飛行船がその制御を失い、暴飛しはじめるとキキは空を飛べる力を再生させることが出来たのはそのためである。
また、トンボが友達に飛行船に乗ろうと、誘われたとき、一緒に居たキキも誘うのであるが、突然、キキは機嫌が悪くなってしまったのは、彼女が自覚していなくても、彼女の魔女としての存在意義が否定されてしまったからという解釈である。

あるいは、あの時、キキの心の中には、嫉妬心が突如として沸き、その気持ちを制御できなくなって、機嫌が悪くなったのだ、という解釈のほうが一般的かもしれない。
だとするならば、魔女は、大人としての気持ちを持つ(=子供心を失いかける)と飛べなくなるという解釈も成り立つか...
つまり、魔女修行というのは、子供の頃は「素」のままで空を飛べたのを、大人になっても、子供の頃の気持ちを持ち続ける(=飛べる)ための修行なのだということかもしれない。
一方で、それまで話が出来たジジという猫との話も出来なくなってしまうが、それはジジが恋猫のリリを見つけるということのほうが原因として大きいのかもしれない。猫も、子供心のままでないと人間と話が出来ないのかもしれない。

さて、そんなスランプに陥ったキキを救ったのが、森に住んでいる絵描きの女性である。彼女から、自身の体験談を聞き、スランプはいつか克服出来る、ということを確信することでキキは出口を見つけるのである。その際、魔女は魔女の血、絵描きは絵描きの血、パン職人はパン職人の血に従って、それぞれの道で、他人のために役立つように生きるのが正しい生き方であるということを教えられるのだ。

そうかもしれない。確かに、キキは魔女として生まれたこと、そして空を飛べるということを他人のために使ってこそ、本来の自分になれるのだ。しかし、彼女は、トンボと一緒に自転車飛行機に乗った時に、無意識的にでも、空を飛ぶという魔法を使ってしまった、つまり、他人のためではなく、自分の欲望ために魔法を使ってしまった瞬間に飛べなくなったという解釈も出来るかもしれない。
そして、キキがスランプを脱して、ようやく空中に浮かぶことが出来たのは、そのトンボを助けたい一心で、無欲になったからであった。
勿論、上記の三つの解釈(以下にまとめた三つ)のどれが正しいということはないのかもしれない。いや、むしろ、この物語の面白いところは、その三つの解釈がそれぞれ絡み合っているところである。

1)科学技術が進歩し、人間が飛行船で空を飛べるようになったから
2)男の子に恋をして、子供心を忘れかけたから
3)他人のため以外に魔法を使ってしまったから

さて、「魔女の宅急便」は、「となりのトトロ」と同様に、バブル最盛期に作られた作品である。
あの時代は経済成長の最後のあだ花のような時代であると同時に、これからは個性の時代になると言われた時代でもある。ちょうどこの映画が公開された1989年は、CBSソニーが、学校名不問の採用に踏み切った年でもあった。つまり、学歴から個性へと、時代の価値が変りつつある時代と言い換えてもいいかもしれない。
そんな時代の空気の中で、この「魔女の宅急便」は生まれた。
そういった視点で、このアニメを見ると、魔女という突出した個性をどのように、他の人々の役に立てるかというのがキキのテーマだとしたら、そういった共同体とは異質な個性をどのように受け入れるべきかというのが街自身のテーマだったのかもしれない。
キキが修行地に選んだ街の人々は、キキが空を飛ぶことに対して、必要以上に驚いたり、差別したりしない。それどころか、実に暖かく、嫉妬もせずにキキの個性を受けて入れていることに気づくだろう。
そこには、宮崎監督がイメージした異物を自然に受け入れることの出来る理想的な人々が描きこまれているに違いないのである。

その意味で言えば、実は、このアニメの主人公は、キキではなく、キキを受け入れたこの街の人々なのかもしれないと思った。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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