ジャック・ラカンの現実観と「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界観

涼宮ハルヒの憂鬱」、2009年に放映されたTVシリーズ全28話を一気に観た。疲れた。

このシリーズは2006年に放映されたテレビシリーズ14話に新作を14作加えて、さらに順番を、時間軸に沿って再編成されている。
したがって、2006年に放送された衝撃の第一話「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」は2009年では、秋の文化祭の出展作品として25話に置かれているのである。
まぁ、そんなことはこのアニメの既存ファンには当たり前の知識なので、今更このブログで話すことでもないのであるが、一応、このブログは、51歳の失業者が突然、アニメに開眼し、中年の視点でアニメを語ってみるというコンセプトで書かいているので、そういった基本的なこともおさらいさせていただくこと、ご了解下さい。

さて、この「ハルヒシリーズ」。「エヴァ」のように息をつかせぬ怒涛の展開というわけではなく、作品のベースとなる雰囲気には、どちらかといえば、まったりとした学園のけだるい日常的感覚がある。そしてのその上で、ハルヒという超元気な女の子を中心となったSOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)という同好会が様々な非日常的体験をしていくという話である。
話は高校1年の春、最初の授業から始まる。そこで、この涼宮ハルヒという女の子は、あまりにも有名な以下の自己紹介をしてクラスを唖然とさせるのである。

ただの人間には興味ありません!この中に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者が いたら、あたしのところに来なさいっ!以上!

そして、そのハルヒのたまたま前に座った男の子、あだ名はキョンが、このハルヒが作ったSOS団に入団させられ、彼女のペースにまき込まれていくのだ。
しかし、それだけならば、普通の学園物のドラマなのだが、この「涼宮ハルヒの憂鬱」では、実はこのハルヒという少女は、無自覚に物凄いパワーを秘めているのである。
そして、そのSOS団には、ハルヒが「無自覚に」集めたメンバーがキョンの他に3名いるのだが、実は、その3名は、それぞれ、未来人=朝比奈みくる、宇宙人(情報統合思念体)=長門有希、超能力者=古泉一樹なのだ。そして、各々は、その背後にある組織から派遣され、ハルヒを監視し、時に助ける(機嫌をとる)という任務を背負っている。しかし、ハルヒ自身は、その3人が普通の人間ではないということは知らない、というか、そんな身近に超能力を持っている存在いるということを認めないのである。
それでは、ハルヒがどんな力を持っているのかといえば、実は明確にはよくわからない。その3人はそれぞれ、ハルヒとは、その背後の組織の論理に沿って解釈しているに過ぎないのである。例えば、超能力者である古泉は、作品の中ではたびたび発生する非日常現象を解説する語り部役なるのであるが、彼によると、ハルヒの潜在的願望は世界を作り変える力を持つという。つまり、ハルヒは極論すれば「神」というのである。また、宇宙人である長門有希は、ハルヒを「自律進化を遂げる手がかり」として観察対象としている。
まぁ、僕も、3人の異人達の説明は、よくわからないのだが、重要なのは、ハルヒをめぐる解釈が、登場人物毎に異なっているということであり、そのどれが正しいとも確定できないというその曖昧な状況があるということである。
例えば、本人であるハルヒは、楽しいこと大好きな超明るい女の子であり、自分の無意識が、世界を改変するほどのパワーを持っていることなど全く無自覚である。また、異人達は、先にも述べたように、それぞれの組織の解釈に沿ってハルヒの力を認識しているし、キョンにとってのハルヒは、一応、3人の異人から解説は聞いてはいるものの、それほどには理解しておらず、どちらかといえば、迷惑だが、ほってはおけない他者という面が強く、他の同級生にとってのハルヒとは、ただの元気な変人なのである。

僕は、このハルヒに対する解釈が多様だという、その世界観の面白さこそ、このアニメの面白さだと思う。そして、これこそ、ハルヒが、ゼロ年代を代表するアニメとなった大きな要因だと思う。
そのあたりは、「エヴァ」と比較してみると、よくわかる。「エヴァ」とは、シンジが自己存在の意義を探求していく話と、世界の真実を究明していく話とが、絡み合った話である。煎じ詰めていってしまうと、それは、どこかに存在しているはずの「正解」を探求していく話なのである。
一方、ハルヒとは、そういった世界の真実への究明というのは、それぞれ、別個に存在している個人(組織)の解釈に過ぎないという話であり、周りの人々は、それぞれの任務や興味に従って、ハルヒに関わっているだけなのである。
だから、世界は実は、どうなっているのかという深部に話が収斂していかない。それはちょうど、マスコミに対して、オルタナティブなメディアとしてインターネットが登場、普及し、しかもその中でも様々な解釈が氾濫する現代の情報空間の多様性を写しているように思えた。
そこが、「エヴァ」に比べると決定的に新しいと僕は思ったのである。

例えば、この2009年のテレビシリーズの中における12話~19話の「エンドレスエイト」では、高校1年生の夏休みの8月17日~31日までを、なんと8話にわたって、繰り返すという大胆な演出がなされている。なんと、市民プール、盆踊り、金魚すくい、花火、アルバイト、蝉取り...が微妙にセリフや画は違うものの8回も繰り返される。しかも途中で、ハルヒ以外の4人には、この世界は、ハルヒがこの夏休みに「何か」をやり残したがゆえに、ループしてしまうのだという一応の納得を得る。
そして、当然、視聴者の期待は、どのようにしてこのループから抜け出せるのかということに集中していくわけであるが、結局それは、ハルヒがやり残した「何か」を実現することによって抜け出せたのではなく、なんとあっさりとキョンが夏休みの宿題をすることによって抜け出せたのである。
ということは、そのループ(実は15000回以上繰り返された)を抜け出す鍵を握っていたのは、ハルヒではなく、キョンだったということである。(ハルヒにとって、キョンの宿題がやり残したこと、というのは有り得ないと思う。)
ようするに、4人の納得は間違っていたということ、つまり、結局は、「ハルヒとは何か」「何故ループは起きるのか」という「真実」の究明は、空中に放り出されてしまったということなのである。

ちなみに、僕はこの8話ループを、視聴者にも体験させることによって、この「ハルヒ」を、例えば、ループ系という簡単な概念などでは決して回収させないぞ、という製作者側の意図を感じる。つまり、この演出は、作中の登場人物だけではなく、視聴者をも、同じ種類の退屈な日常に、体験として巻き込ませるという、ある意味、アバンギャルドで意地悪な実験として高く評価したい。

さて、実験といえば、そんな夏休みの宿題すらまともに出来ないこのキョンは、時に、驚くようなセリフを吐くのがこのアニメと特徴の一つでもあるということも付け加えたい。
例えば、以下れは27話の冒頭の語りの部分である。文化祭も終わり、日常が戻った晩秋のある日のこと...

つまり、平凡な日常がまたはじまったわけなのだが、
このSOS団アジトでの放課後、平凡な日常と呼んでいいのかは、保留しておくべきだろう。
未来人、宇宙人、超能力者の三人と部室でまったり過ごし、
かつ正気と客観性を保ち続けている俺は結構大物なのかもしれないなぁ。
ラカンにスカウトされるかもしれん。

なんと、あの構造主義の精神分析学医であるジャック・ラカンの名前をサラッと出しているのである。
しかも、よく考えてみると、このラカンの世界観が、先にも僕が述べた、ハルヒ的世界となにげに通底していることに驚かされるのだ。

ご存知の方も多いと思うが、ラカンは、人間にとって、「現実とは決して言葉では語りえないものであるが、しかし、言葉でしか語りえないもの」というテーゼを出した学者として知られている。そして、狂気(精神病)とは、その語りえないはずの現実に直接触れてしまう状態だと定義した。さらに、ラカンは、精神分析医における治療とは、患者に真実を知らせることではなく、寛解(かんかい)させることであると主張した。

これをハルヒに当てはめてみると、この物語は、「ハルヒ、あるいは超世界とは何だ」という究明をするのが大事なのではなく、そういった理不尽(不可解)な現実を、いかに、やり過ごすのかということがテーマだということになりはしまいか。先にあげたキョンの言葉は、彼、そしてゼロ年代を生きる僕らの生きるべき道をも示唆する言葉のようにも思えるのだ。
つまり、これはニヒリズムにも通じるのだが、「ハルヒ」は、理不尽な世の中を理不尽と知りつつ、いかにつきあってべきかという方法を示しているということである。それは、世界の究明による解決を断念することであり、常態としての憂鬱を引き受け、適当に解釈しながらやり過ごす生き方である。
つまり、このアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の憂鬱とは、それは現代を生きる僕らにとっての憂鬱であり、そのテーマは、その憂鬱をいかに覚悟するのかという意味なのではないだろうか。

日本におけるゼロ年代とは、それまで存在していた(個人を守るために存在した)共同体や信頼関係が、あらゆる場面で限界に達し、あるところでは崩壊し、現実の理不尽が、個々人を直撃するようになった時代と言い換えてもいいと僕は考えている。わかりやすく言えば、それまでは、勉強をして、いい大學に行って、いい会社に就職すれば幸せになれるといった方程式が崩れ、同じ事をしても、幸せになれる人間と不幸になってしまう人間とが、任意に別れてしまうという理不尽が個人を直撃する時代になってしまったと言い換えてもいい。
しかし、その理不尽は、僕らには、具体的には見えにくい。それは突然にやってくる「現実」だからである。

もしかしたら、このアニメに惹かれる僕らはハルヒという理不尽像を具象化することによって、その現実の理不尽を無意識的に納得(=解釈)しようとしているのかもしれないとすら思う。

しかし、その理不尽を避けたところには、本当の愉楽は存在しないということも、僕らは本能的に知っている。
キョンは友人の谷口が文化祭におけるハルヒの活動を批判したのに対して、突然、ムカつく(26話)。その時、キョンは、彼にとって、ハルヒは大迷惑でありながらも、最高に魅力的な吸引力だということに気づくのだ。
狂気というものは日常(=憂鬱だが幸せ)の対極にある状態にもかかわらず、それでも輝いて見えてしまうという人間の真実。それがある限り、ハルヒとの出会いはキョン、(そして僕ら)にとって輝かしい光なのだ、たとえ、それが大迷惑な存在であったとしても。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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