「ビューティフルドリーマー」 終わり無き夢から抜け出さざるを得ない人間存在

押井守による1984年の監督作品「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を観た。
この作品は、押井氏による2本目の本格的な劇場アニメ作品であり、アニメ監督としての押井守の評価を決定付けたのみならず、後のアニメ業界にも多大な影響を与えた作品として、今尚、多数のファンを持っている。

話の中身はこうだ。

諸星アタルが通う友引高校の学園祭の前日、生徒達は学園祭の準備と前夜祭の興奮の中にいた。
しかし、何かがおかしい。
その興奮のただ中、教師の温泉マークは一人、デジャブに襲われていたのである。
そこから、真実が少しづつ姿を現していく。実は、この日は永遠に繰り返されていたのだ。
さらに、その現象は、ラムちゃんの甘美な夢を、夢邪気という妖怪が、仮想現実化していた世界だったということがわかるのである...

僕は、このラムちゃんの夢の時代性と、それに対して、何故、ラムちゃんの恋人のアタルは、その甘美さを放棄してまで現実の世界に帰りたくなったのかというその心情に興味を抱いた。以下、その観点から、このエントリーを書いてみたいと思う。

さて、そのラムちゃんの夢。最後の方に、少女と化した彼女が語る。

ウチの夢はね、ダーリンと、お母様やお父様やてんちゃんや終太郎やメガネさんたちとずっとずっと楽しく暮らして生きたいっちゃ。
それがウチの夢だっちゃ。

ラムちゃんが望んだ世界とは、文字通り、夢の世界だったのである。

そこは、全ての生活必需品が、いつの間にか、充当される世界。しかも、その仕組みはわからなくても、生きていける世界であった。
その象徴がアタルの家の近くの無人のコンビニである。そこには、誰が運び入れたのかもわからないが、アタル一家と友人達が暮らしていくには何不自由のない商品に満ち溢れていたのである。

言うまでもないことであるが、現実の世界においては、コンビニチェーンが正常に稼動するには、その陰に無数の人々が携わる労働というものがある。
しかし、それらは消費者である僕らにはほとんど見えない。システムとしてそこにあるように見えるのだ。
この「ビューティフルドリーマー」が公開された1984年当時は、コンビニの24時間化が当たり前になり、レジと仕入れが直結するPOSシステムが浸透し始めた頃の時代である。いわゆる「終わりなき日常」を自然なものにすべく、それを背後から支えるコンビニシステムが出来てくる時期であった。(ちなみに、この311震災後、夜間、電気の消えたコンビニを見て、終わり無き日常の終焉を感じた人が多かったという。)

友引町における他の商店が全て廃墟となる中で、コンビニの灯りだけが煌々とともり続ける(ラムちゃんの夢の中の)風景は、その時代(1984年当時)には既に、押井氏にとっては悪夢として想起された街だったのであはないだろうか。
しかし、ゼロ年代以降に日本の地域社会を襲ったいわゆるファスト風土化(三浦展氏)と呼ばれる、「その背後にあるらしいが見えない終わりなき日常を維持し続けるシステム」は、ある意味、このラムちゃんの夢と酷似しているではないか。

さらに、ラムちゃんの夢は、この夢に疑いを持った温泉マーク、ラムちゃんの「恋敵」しのぶさん達を次々と抹消していくのだが、それは、あたかも、この見えないシステムに異議を唱える存在、邪魔な存在がこの世界に居られなくなってしまうという、その不気味さをも表現しているのかもしれない。

しかし、人間とは、こうした生活が保障されたシステムを夢想する一方で、そこに気持ち悪さを感じ、どこか間違っていると思ってしまう生き物でもある。これが、この作品のテーマである。
それゆえに、サクラ先生、面堂君、そして真実を悟ったアタルは、そんな世界からなんとか抜け出そうと試みるのだ。
そして、その世界を作り出した夢邪気という妖怪にと闘い、その世界を壊そうとするのである。

しかし、一方、その世界を壊されたくない夢邪気は、アタルに対してこんな風に諭す。

まぁね、夢やから現実やからゆうて、所詮は考え方ひとつや。
なら、いっそのこと夢の中で面白おかしく暮らしたほうがええのとちゃいまっか。

う~ん、正論!!しかし、アタルは彼の声に耳を貸さない。彼は、その夢邪気という妖怪に、まるでハーレムのような夢の世界を提供されるのであるが、そこに、ラムちゃんが居ないという理由でその夢世界を拒絶し、その後も、夢邪気が作る(正確に言えば、アタルが願望し、夢邪気が具現化した)夢を転々とするが、一貫して、現実に帰ることを望み続けるのである。
そして、最後の夢で、少女化したラムちゃんに「お兄ちゃん、どうしても帰りたいの?」と訊ねられたアタルは、以下のように応える。

お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。
わかんねぇだろうな、お嬢ちゃんも女だもんな。

そして、現実の世界に戻っていく(落ちていく)のである。
しかし、現実の世界は、決して平穏な世界ではない。
ラムちゃんはいるが、他の女性達もいる。しかも、アタルの平穏を乱す男達(つまり他者)も存在する苛烈な世界なのである。

ここで、僕は、自分自身の80年代前半を思い返してたいと思う。
僕は大學で社会学を学ぶ学生であった。ゼミでは、個人はどのように社会と関わるべきかというような議論をしていた。
そこでは、「人間とは、置かれた状況を主体的に変革することによって新たな自己規定をし続けなければならない存在だ」というようなサルトル的な言説が生きていた。
しかし、一方で、教室を出れば、友人との間では、主体的思想への疑い(構造主義、ポスト構造主義)が主流になっており、さらに、大學外では、先ほど述べたコンビニシステムに象徴されるような、個々人が快適な生活を享受する代償として、大きなシステムに依存せざるを得ないような社会が巨大資本によって知らず知らずのうちに構築されていた、そんな時代であった。

おそらく、「ビューティフルドリーマー」は、そういった80年代前半の消費社会(高度資本主義社会)へと向う社会状況と、個々人の心情や思想の葛藤を映し出している作品なのではないだろうか。

アタルが怠惰な快適(ラムちゃんの夢)からも、平穏な快楽(アタルの夢)からも決別して、混沌とした現実を自己選択するのは、あの時代、少なくとも、1951年生れの押井監督の世代にとっては、夢邪気が持つ消費主義的な論理よりも、アタルの自由を希求する生き方、つまり、サルトル的アンガージュマンを選ぶべきという倫理の方が優勢だったということを示しているように思えるのだ。

さて、ここで一つ余談である。このアニメの中には、生徒達の喧嘩を窓越しに眺めるサクラ先生が「二度目は悲劇、三度目は喜劇と言うが一生やらせておくわけにもいかんか」とつぶやくシーンが出てくる。これは、カール・マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の冒頭、「世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。だが、ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」のパロディである。この書は、1951年生れの押井氏と同世代の学生達の青春の必読書であったのだろう、少なくともこのフレーズは誰でもが知っていたに違いない。
僕は、こういったちょっとしたセリフの引用(あるいはメガネの演説の中に出てくるヴェルレーヌの詩の一節、校長先生の説教の中の歎異抄の一節など)に、岡田斗司夫氏が言うところの「80年代おたく的教養」とは若干異なるが、あの世代の人々の基礎教養の守備範囲の広さを垣間見るのである。

そして、この「ビューティフルドリーマー」がさらに面白く、しかし残酷なのは、アタルが戻った現実も、実は本当の現実かどうかわからないところで宙吊りにしたまま話が終わってしまうからである。それは、夢から現実にもどったところで、そこも(80年代後半のバブルの前夜祭としての1984年の)夢のような現実にすぎないのではないか、システムからはちっとも逃れることは出来ないじゃないか、という押井守監督による、絶望にも近い時代批判が込められているようにも見えるからである。

ひるがえって、2011年の夏。僕らが、80年代に見た夢は、何度も(バブル崩壊、阪神大震災、オウム事件、山一ショック、リーマンショック、311震災...)揺さ振られながらも、大きなシステムに依存して終わりなき日常を続けているようにも見える。
しかし、そこには既に「夢」や「お祭り」という意識のカケラもない。
かといって、かつてのアタルのような自由を求める意思も選択力も風前の灯のようになってしまっているのだ。つまり、僕らにはそこから抜け出す道もみえていないのだ。
しかも、僕らには、諸星家で狂乱を繰り返したメガネ達の開き直った元気すら無い。

例えば、僕が敬愛するアニメ評論家の古谷経衡氏は、この「ビューティフルドリーマー」と「涼宮ハルヒの憂鬱」との類似を指摘されている。が、しかし、「ビューティフルドリーマー」の学園祭前日のループは、底抜けに明るく描かれているのに対して、ハルヒにおけるループ話である「エンドレスエイト」に流れる空気は重く感じる。
リーダーの元気者ハルヒにとってすらも、義務的なものであり、それはどこか残尿感溢れるものなのである。しかも、そのループを全部記憶してしまっている宇宙人の長門有希にとっては、途方もない憂鬱(本人には感情は無いが)として描かれているのだ。
そして、「エンドレスエイト」においてそのループを抜け出すことが出来たのは、ループを抜け出そうとする強い意志というよりも、予想外のちょっとした偶然からであった。
おそらく、これらの違いは、この二つの作品に横たわる時間の断層のせいに違いない。

話は変るが、僕は先般、発生しているフジテレビに対する憎悪にも似た抗議活動の根本には、80年代に「楽しくなければテレビじゃない」と言って無理やりに彼らがはじめ、しかし既に終わっている祭りを、自分達が依存し続けるシステムの利益のために偽装し続けるテレビ業界に対する怨念にも近い不快感があると思っている。
それに対して、岡村隆史や北野たけし等の有名芸人達が、そういった人々の声に対して「嫌だったら見なければいい」というようなことを言ったらしい。
それは常識的には正しいのかもしれない。しかし、本来だったら、人々のマイナーな心情を掬い取ってナンボの芸人の言葉としてはいかがなものだろうか。
おそらく、それは、心に響かない既得権益者の圧力としてしか受け取られないのではないだろうか。

まさむね

参考:ニコニコアニメ夜話#4『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』 

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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