「カラフル」に見られる儀式としての共食(きょうしょく)

2010年夏の劇場公開アニメ「カラフル」を観た。

この作品は、森絵都さんの同名の人気小説をアニメ化したもの、監督は『河童のクゥと夏休み』の原恵一さんである。

ストーリーは一度、死んだはずの「僕」が、天国の入り口でプラプラという天使のような子供に、突然「あなたは抽選にあたりました」と言われて、たった今、自殺して死んだばかりの中学三年生・小林真の続きの人生をやり直すという話だ。
「僕」は、最初、それまでの記憶を全て失っており、意識的には小林真ではないのだが、プラプラから家族や友人関係の予備知識を聞いたり、自身で周囲の人(家族や同級生)の視線や振る舞いを肌で感じながら、自分で考えて行動していくにつれて段々と「僕」はもともと小林真であったことに気づき、本当の小林真になっていくという話である。

小林真が自殺した原因は、周りの人間に対する不信感であった。彼は普段から、同級生からイジメのターゲットになっていた上に、自殺の前日、密かに憧れていた下級生・ひろかが、中年男性とラブホテルに入る瞬間を、さらに、ダメ押しとして、自分の母親が、フラメンコ教師と一緒に同じホテルから出てくるところも目撃してしまい人生に絶望してしまうのであった。

そして、生き返った「僕」も、プラプラから母親の不倫の話を聞いたその瞬間から、母親に対して憎悪に似た感情にとらわれ、そんな母親をどうしても許せなくなってしまう。一方、母親は、生き返った小林真に献身的に奉仕するのだが、「僕」にはその愛を受け入れてもらえない。

簡単に言えば、この物語は、そんな真と母親との確執から融和への過程を食べ物を媒介として描いた作品である。さらに言えば、それは対母親だけに限らず、彼の周囲の人々との心理的距離は、彼が与えられる様々な食べ物をいかに受容(拒絶)するかというその振る舞いによって正確に表現されている作品ということ、そしてその受容の仕方の変化こそが、彼の成長を物語っている作品、と言うことも出来るのではないだろうか。

言うまでもないことであるが、他者から食べ物を受容するということは、心理的にも文化人類学的にも重要な意味を持っている。例えば、聖書において、神は弟・アベルからは食べ物を受けとったが兄・カインからの食べ物を拒絶した。その嫉妬心によって、カインはアベルを殺し、それをごまかそうとしたカインは神によってエデンの東に追放されるという物語は有名だ。勿論、現在でも、ビジネス相手と親しくなろうとするならば、共食(きょうしょく)という「儀式」は欠かせないものであろう。

さて、順を追って、見てみようか。

まず、真が病院から退院してきた日の夕食。その時点では、まだ「僕」は真、及び、その家族のことを全く知らない。それゆえに、「僕」は様子見の演技をしながら、食卓を囲んでいる。
「僕」は、真が以前より好物であったといわれたローストビーフを普通に食べる。母親から勧められた食事に対する抵抗感はまだない。ただ、なんでこんな普通の家庭に育った真が自殺をしたのかが不審でならない。

しかし、その日の夜、プラプラから、母親が実は不倫をしていたということを知らされ、先ほども述べたように急に母親に対して憎悪の感情を抱くようになる。

次の日の朝食。母親は、トーストにマーガリンを塗って真に食べさせようとするが、真はそれを拒絶する。ここから、母親にとっては、つらい食事の光景が始まるのだ。
その日の夕食、真は無言。白飯だけは箸でつまむのだが、母親の手料理にはいっさい手をつけない。
その後、母親が部屋に運んだと思われるカレーライスも、白飯にだけは食べた形跡を残すが、カレーにはほとんど手をつけていない(ように見える)。

真が学校に行き始めて、最初の日、美術室で、憧れのひろかからココアシガレットをもらい、その場で食べる。
ここで、彼が彼女に好意を抱いているということが分かる。

次の日の夕食も、真は母親の手料理を食べようとしない。また、食事後、母親が剥いてくれたリンゴにも手をつけない。

翌日、美術室、ひろかから都コンブをもらい、それを一緒に食べる。

夕食、おかずにはハンバーグが出るが、真はそれを無視。ふりかけを白飯にかけて食べる。途中で兄が退出し二人だけになるが、真の頭には、ハンバーグをつくる母親の手と、布団の上をさまよう母親の手(不倫シーンの暗喩)がオーバーラップしてしまう。母親に「あんたと一緒に飯なんか食ってるとなんか履きそうだよね。」と暴言を吐き、食卓を退出。

翌日、美術室、ひろかからうまか棒をもらい、それを一緒に食べる。

その後、真がひろかの援交の場面に遭遇し、ホテル入り口から彼女の手を引いて走って逃がそうとするが、ひろかは平然としてホテルに帰っていき、呆然とする。
さらに、その夜、家の近くの神社境内で不良にかつあげされ、体中に傷を負う。

家に同級生の唱子が見舞いに来て、ジャンクフードを持ってくるが、真はそれを口にはせず、その場に置く。
真にとって唱子はウザいだけで眼中にない女子である。「なんかむかつく」子であった。
しかし、実は、唱子にとっては、真は、かつていじめられていたという意味で同士的存在であり、彼女は、真のことを常に気にかけていたのだ。しかし、真は唱子に乱暴しようとしてしまう。

その後、真の前に早乙女という友達が現れる。彼もクラスでは地味な存在だが、それまでも何度か真に話かけていた。
彼に誘われて、二子玉川周辺の旧路面電車をたどる散歩をするうちに、彼と打ち解けるようになる。
そして、一緒にスニーカーを買いに行った帰りに、コンビニで買ったから揚げと肉まんを交換し、一緒に公立高校を目指そうと話をする。
真、ここではじめて「あ~美味い」と表現。これで、真と早乙女の信頼関係が出来ることが表現される。
と同時に、真は、生きていることの幸せも感じる。

数日後、父親に釣りに誘われ、川辺で弁当を開くが、そこでも真は母親の弁当に手をつけないでスナック菓子を食べる。
しかし、母親と真との確執を気に病んでいた父親から母親も辛いというような話をされる。
その帰りに、父親と二人でラーメン屋に行く。父親は真に、ラーメンの具や麺を次々と上げると真はそれを食べる。
つまり、ここで、真は父親を受け入れたことが表現されている。

美術室。ひろかが自分の心の悩みを真にうちあける。
ひろかは、自分は綺麗なものが好きだが、それを無性に穢したくなることがある、モノに囲まれて過ごしたいと同時に、それらを全て捨てて尼寺に入りたいともいう。つまり、心の中にある様々な衝動と規範の葛藤をもてあましてしまう自分の赤裸々な姿を真にぶつけるのだ。
それに対して、真は、「そういうことってあるよ。ひろかだけじゃない。みんな変で普通なんだ。みんなそうだよ。人間は一色じゃなく、いろんな色を持っているんだ。綺麗な色も汚い色も」と、ひろかに話をする。
おそらく、ひろかに対して、このように諭しているうちに、自分の中にある母親に対する憎悪も、段々薄らいでいるのを感じていたのかもしれない。つまり、ひろかの援交を赦すとともに、母親の不倫も赦しはじめていたのか...

その日の夜、自分の進路に関して家族会議になる。父、母、兄は、それぞれが真のためによかれと思って、自由な美術系の高校への進学を勧めるが、真は早乙女と約束した公立高校への進学を涙ながらに訴える。
家族からの愛情を理解し、それを受け入れた真は、母がよそってくれた鍋物に、始めて口をつける。

こうして、自分の周囲を次々と受け入れた彼は、「最後の審判の日(一定期間、真という仮の人生を生きた修行の結果が判断される日)」に、その審判の直前に唱子に謝罪。そして彼女の話を聞くにつれて彼女はずっと彼を見守ってくれていたことに感謝、彼女を理解する。
そして「僕」とは小林真だったということ、そして、自分が自分を殺してしまったことの罪に気づき、それによって、学校の屋上でプラプラから、「僕」は続きの人生を許されて完全な小林真となるのである。

この話は仕掛けとしては、SFチックな設定がほどこされてはいるが、基本的には青春の一時期に誰もが陥る、自分とは何かというアイデンティティの揺らぎ、性に対する意識の芽生え、周囲に対する違和感、そして親に対する反抗心等を自分なりに受容して、克服していく、まさに「ド直球」の話である。

そんなベタな心理の葛藤と脱皮の過程を本当に繊細に描いた傑作である。
おそらく、アニメの表現力の最先端に位置する作品と言っても過言ではない。

長々と主人公の真と食べ物の受容の仕方について書かせていただいたのは、そんな繊細さを少しでもお伝えしたかったからである。
冗長な文章になってしまったことはご容赦いただきたい。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中