「火垂るの墓」 居心地のいい幻想の世界を選択してしまったがゆえの悲惨な結末

昨日「火垂るの墓」を改めて観た。

この作品は、1988年に、宮崎駿の名作「となりのトトロ」との二本立てで劇場公開された、原作・野坂昭如、監督・高畑勲による作品である。ちょっと前まで毎年、8月15日近辺になるとテレビ放映されていたので、僕もかなり前だが一度、観たことがあった。
その時は、兄妹の境遇の悲惨さに涙したことを覚えている。おそらく、当時は普通に、反戦アニメというコンテクストで観たのではなかっただろうか。

しかし、今回、よしむねさんの「夏のアニメ③「火垂るの墓」の蛍火はたぶんいまもどこかの濡れた草露につながっているのだ」というエントリーに触発されて再び観てみたのだが、以前観た時とは、また違った印象を持った。

確かに、反戦アニメというような解釈も可能であるが、それだけのアニメではなかったというのが今回、抱いた感想である。

ストーリーは、今更、話すまでもないのだが、ごく簡単に言ってしまえば、海軍大佐の父親を持つ兄妹(兄14歳、妹4歳)が、空襲で母親を失い、遠い親戚にあずけられるが、居心地が悪くなり、地下壕のようなところで二人だけの生活を始めるが、妹が栄養失調で衰弱死、兄の方も亡くなってしまうという話である。
勿論、二人の兄妹が両親や家を失い、不幸な境遇に陥る原因として、戦争(空襲)を扱っており、その悲惨さを訴える面もある。母親が全身包帯巻きにされ、共同墓に投げ込まれるシーンは悲惨そのものである。

しかし、実は、その兄妹が、衰弱死してしまうのは、終戦直後の社会から、自ら離脱する道を選んでしまうからである。

敢えて言ってしまえば、社会の中で、もまれながらたくましく生きていくという選択をせずに、二人だけの閉鎖的な楽園に逃げ込んだがゆえの悲劇ということも言えるだろう。
僕は、数日前のエントリー(馬鹿で非合理的な人間のいとおしさを描いた「MEMORIES」)で、日本のアニメの大きなテーマの一つに、「居心地のいい幻想の世界」VS「厳しいがリアルな現実」のどちらを選択するのかという問いがある、というようなことを述べた。
ちなみに、その時、例に挙げたのは、「ビューティフルドリーマー」「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」「涼宮ハルヒの消失」、そしてエントリーの対象である「MEMORIES」の第一話「彼女の想いで」であった。

その文脈で見ると、この「火垂るの墓」における兄妹(特に兄)は、「居心地のいい幻想の世界」を選択したがゆえに、悲惨な結末を向えたアニメというように読み替えられるのではないだろうか。
「火垂るの墓」で最も印象的な場面である、妹の節子が亡くなる直前のシーンにこんなやりとりがある。
節子はやせ細って、横になりながら、小石を差し出してこう言う。


節子:にいちゃん、どうぞ

清太:なんや節子

節子:ご飯や おからたいたのもあげましょうね どうぞ、おあがり、食べへんの。

彼女は悲しんでいるというわけでもなく、淡々とそのような言葉を口にするのだ。
節子はあまりの衰弱に幻覚を見ながら、そのまま亡くなってしまうのである。外部から見れば悲惨な光景だが、おそらく、節子の頭の中には、兄と二人の楽しい光景が浮かんでいたに違いない。

しかし、兄の清太は、この悲惨な結末に至るまで、現実を直視しようとはしなかった。「居心地のいい幻想の世界」を選んでしまったのである。

それは、決して清太が、愚鈍だったからではない。
彼は、物語の冒頭で、空襲の直前に母親と別れて妹を背負って逃げるのであるが、母親からは相当、信頼されていたはずである。
また、父親が海軍軍人ということで、プライドも高く、その言動は、愚鈍どころか、むしろ、しっかりしていた。

しかし、親戚の家を出てからは、敢えて社会との関わりを避け、自給自足の生活に入る。自分達だけの楽園にこもってしまうのである。

例えば、彼は、その時点で7000円もの現金を持っていた。(1945年の大卒の初任給が150円なので、現在の大卒の初任給を仮に15万円とすれば、その価値は、約700万円に相当する。この件に関しては古谷経衡氏もニコニコアニメ夜話(第7回放送 お題作品 『火垂るの墓』)でにてもご指摘されています。)
それなのに、畑から野菜泥棒したり、空襲警報によってもぬけの殻となった家に忍び込んで着物を盗んだりする。それは生きるための必死の行為でもあるが、一方で、反社会的な快楽でもある。

しかし、現代の価値観、あるいは、平常時の常識から、この兄妹がたどった運命を、いぶかしがっても仕方が無いのかもしれない。

人間は、ある追い詰められた状況の当事者となった時、周囲から見ると有り得ないような行動をとり得る存在だからである。
あまりにも辛い状況に置かれると、現実が見られなくなり、幻想の世界に行ってしまう存在だからである。
あるいは、時として自分の意志とは裏腹に、タナトスに犯された無意識の力によって破滅への道に進んでしまうものだからである。

最後の方で、近所の裕福な家庭から流れる「埴生の宿」に合わせて、節子の幻影が飛び跳ねる、あまりにも切ないシーンがある。いつまでも、その場で遊ぶ節子の幻影は、亡霊のように4歳のまま止まった時間軸の上で笑い続けるのだ。ある意味、それは永遠の時間の獲得もある。

そして最後のシーンで、戦後45年近く経っていた(1988年頃の)神戸の夜景を山の上から眺める、節子をひざに眠らせた清太の遠景が映し出される。しかし、清太には、その繁栄し、成長し続ける現実に、何もコミットすることは出来ない。それをただ見守ることが出来るだけである。

僕はその清太の後姿に、「居心地のいい幻想の世界」を選んだ者の罰として抱え込んでしまった永遠の寂しさを見るのである。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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