アシタカは成長しない 「もののけ姫」という神話

1997年、宮崎駿監督の「もののけ姫」は神話を見ているかのような壮大な物語であった。

時代は、おそらく室町時代。東北地方にはまだ蝦夷の子孫が村落を作り、ひっそりと暮している。大和朝廷との戦いに敗れて、500年余りというような話が出てくるので、時代は14世紀~15世紀頃だろうか。
主人公のアシタカは、そこ村長の跡取り息子。責任感が強く、勇敢で、かつ戦闘能力も高い。まさに凛々しい若者である。
彼は、西国からやってきたタタリ神から村を守るために戦い相手を倒すが、右手に呪いを受けて痣を残してしまう。そして、このままでは、その呪いが全身に回り、命を落としてしまうだろうという占いを受けて、「誰にも定めは変えられない。ただ待つか、自ら赴くかは決められる」との言葉に従い、村を捨てて西国に行くことを決心するのである。

僕が気になったのは、その後の彼の行動には迷いが無いということ。つまり、そこには内面の葛藤というものがない。常に迅速に判断をして果敢に運命を切り開く、それがアシタカの行動パターンなのである。
その意味で、ちょうど、このアニメが公開されたのと同時期に、一大ブームを巻き起こしていた「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公・シンジとは正反対の性格をしている。

内面の葛藤を表現するのが文学なのに対して、登場人物が運命に従って行動するのが神話であるというのが僕の説だ。

僕が冒頭にこの「もののけ姫」に対して、神話を見ているかのようだと話したのは、アシタカのそういう行動様式を指してのことである。例えば、彼は蝦夷の村を出るときに、村の娘・カヤから、彼女が「お守りするように息を吹き込めた」玉の小刀をもらい、「私はいつもカヤを思おう」と言ってそれを受け取るが、後に、その小刀を何の屈託もなく、別の女性・サン(もののけ姫:狼に育てられ人間を恨んでいある)にプレゼントしてしまう。しかし、そこには微塵なほども葛藤が無いのである。
また、物語の最後に、タタラ場に居残ることを決めた時もそこにはブレはない。このまま旅を続けるという選択肢や、(「定め」を違えたとしても、元々、旅の原因である呪いを解くことがほぼ達成されたがゆえに)生れ故郷の村に戻るという選択肢もあったかもしれないのに、である。
そして、アシタカの心が揺れる場面では、それはアシタカ自身の内面からの葛藤ではなく、アシタカの中にある別の存在(呪い)が外部から彼を突き動かすというような描写がされている。例えば、エボシの自然に対する手前勝手で残酷な思想を聞いたとき、アシタカの呪われた右手が勝手に剣を抜こうとするのを左手で制御しようとするような描写にそれが見られる。
(※片手が制御できなくて、もう片方の手で押さえる仕草は、僕らの世代の男性なら、子供の頃に見た鉄の爪・フリッツ・フォン・エリックを思い出すだろう。)

また、神話における英雄は、スサノウ、大国主命、ニニギノミコト、ヤマトタケルの例をあげるまでも無く女性にモテるが、意外にも特別の女性への一途な愛は感じさせない。そしてそれはアシタカにも言えるのだ。
また、モテる男の典型といえば、先日「東のエデン」 その物語構造の典型についてというエントリーで、「東のエデン」の滝沢朗についても似たような事を書いたが、異世界からやって来る、謎を持つ、意外に無知、特別な力を持つ、欲が無い、素直、献身的に他人につくす、他人の問題に巻き込まれやすい、などの特徴を持っているが、アシタカもまさにその典型に当てはまっている。

そういえば、他の宮崎作品もそうだが、この「もののけ姫」には、特に日本古来の風習や信仰、伝説を想起されるカケラがつまっている。例えば、先に書いたカヤからアシタカへの餞別のやりとりには、柳田國男が「妹の力」で記した、一族の女性の形見が男性を守るという信仰を思い出させるではないか。

さて、その右手に呪いをうけたアシタカは、タタリ神の足跡を追って西に向う。ある里で、戦(いくさ)に巻き込まれるが、そこでジコ坊という謎の人物に出会う。このジコ坊は、「師匠連」という組織の使者らしいが、諸国を旅する無縁の民である。後に天朝様(天皇)からの書状を持ってシシ神を討とうとするところから見て、供御人だろうか。あるいは、この時代、歴史に始めて登場する新興の商人だろうか。

天土の間にある全てのものを欲するは人の業というものだ。

これはジコ坊がシシ神の首を持って逃げようとしたときに、アシタカに言ったセリフであるが、この欲望全肯定主義はアシタカのような神話的パーソナリティからは絶対に出てこない、この新しい時代の新思想ではないだろうか。
実は、僕はこのアニメは公開時に劇場で見てパンフも購入したのだが、確か、そこには中世の非定住民と天皇とのネットワークを書いた「異形の王権」の著者・網野喜彦による解説文が載っていたように記憶している(残念ながらパンフは失くしてしまった)。

確かに、この「もののけ姫」には、網野史観に頻繁に登場する異形の民を髣髴させるような人物、集団が沢山出てくる。「異形の王権」には、柿色という色は一般的に、それら異形の民を表す色となっていたというような話が出てくるが、この物語の登場人物の多くも、(例えば、ジコ坊の配下の唐傘連、石火矢衆等)、柿色の装束を着ている。アシタカの頭巾も同様に柿色である。
ちなみに、現在でも、歌舞伎を表す色は、黒と柿色と緑であるが、この柿色には、歌舞伎という芸能のルーツが微妙に残されているのである。

さて、ジコ坊との出会いのところに話を戻す。彼はアシタカが市場で砂金で米を購入しようとするときに現れ、アシタカを助け、その晩、一緒に食事をする。先日、「カラフル」に見られる儀式としての共食(きょうしょく)というエントリーでも書いたが、多くの物語において共食は、双方の距離が近くなった事を表す。冒頭付近に、アシタカがジコ坊と一緒に飯を食うシーンがあるということは、その後の展開でジコ坊がアシタカにとって、味方になることを暗示する...のかと思ったら、そうでもなかった。ただ、決定的な敵ともならなかった。
最後の方のシーンでアシタカはジコ坊が捕ったシシ神の首を返すべきだと主張し、口論になるが、その時、アシタカは「あなたを殺したくは無い」という。おそらく、それはこの時の共食が効いているというのが僕の説だ。
さて、この共食でも興味深い場面がある。ジコ坊がアシタカの椀を手に取り「雅な椀だな」と言うのである。おそらく、彼は椀を見ることによって、アシタカの出自を瞬時に判断したのだ。中世には木地師といって、日本全国を椀の原材料を求めながらロクロで作り、売り歩いた民がいたが、ジコ坊はその椀の種類で相手を知るすべを熟知していたのであろう。直後、ジコ坊は、古(いにしえ)の書物にある蝦夷の話をしだすのである。

しかし、彼はアシタカを全面的に信頼しているわけではない。彼は一本足下駄(天狗下駄)を履いたままで食事をしているのだ。先ほど、ちょっと触れた最後の方でアシタカとジコ坊が争うシーンが出てくるが、ジコ坊にとって、この下駄は瞬時に武器となるである。
ご存知の通り、天狗下駄は修験者、天狗、古事記にも出てくる旅人の神・猿田彦が履く下駄としても知られている。猿田彦といえば、手塚治虫の「火の鳥(黎明編)」に登場する鼻の大きな御仁であるが、このジコ坊も鼻が赤く特徴的である。

さて、話を急ぐ。ここまで、ジコ坊についてばかり、しかも無駄話ばかり書いてしまった。しかし、僕のような素人にまで、このように沢山の余談を書かせる「もののけ姫」が持つ作品力は、逆にこの作品の豊潤さを示しているとも言えるだろう。おそらく、この作品は、細かいところにつまづきながら、一々、考え、様々なことを連想しながら見るのが楽しい作品なのである。

場面は変って、西国のタタラ場の人々が、牛に荷物を積んで運ぶシーン。このタタラ場は、砂鉄から製鉄までを一貫して行う現代で言えば「社宅付きプラント」のようなところである。しかし、時代は中世。彼らは湖に突き出た半島に城壁を作り、その中で完全自治の共同体を作って暮しているのだ。
彼らには敵が多い。製鉄から生み出される富を狙って、タタラ場を自身の配下に置こうとする地侍(国人)のアサノ家、製鉄によって自然を奪われたことを恨みに思うモロ一族(狼+もののけ姫)や猪神(乙事主)、そして謎の猩々というように、人間界、自然界の両方の敵と常に対峙しているのである。
面白いのはこのタタラ場が、当時の日本におけるメインストリームである農耕から排除された人々によって作られた自由都市的性格を持つ場所ということである。ここの長であるエボシは、神やタタリを信じなかったり、隊列から脱落して谷に落ちた仲間を捨てる判断をするなど、冷徹で聡明な合理主義者である。
売られそうになった女性や、世間から捨てられたらい病患者を引き取るというのも、彼らが使いようによっては役に立つからであろう。勿論、アシタカを一目見て、その能力を見抜きスカウトする。
また、彼女は、自分達が生き延びるためには、京の朝廷とも結ぶ政治家としての顔、石火矢という火薬銃の一種を自分達でも作ろうとする軍事戦略家としての顔、タタリ場の人心を掌握するカリスマ経営者としての顔、サンと一対一でも戦おうとする個人戦闘員としての顔、どの顔においても優れている。しかも、勿論、美人である。

彼女もアシタカ同様に、瞬時に物事を判断する。悩んだり、迷ったり、ブレたりすることはない。しかし、彼女の行動は全て、タタラ場を維持したいという、唯一その目的のためだけに行われるからであって、アシタカの迷いの無さとは別種のような気がする。それは、現代でも通用する優秀なビジネスマン的決断力のたぐいが備わった人物なのだ。
例えば、アシタカとの最初の会話(実質的な採用面接)でこんなやりとりをするエボシ。

そのつぶての秘密を調べてなんとする?
曇りなき眼で見定め、決める。
曇りなき眼?アハハハハハ...
わかった。私の秘密を見せよう。来なさい。

「曇りなき眼」などという素朴でアナクロな言葉を吐いたアシタカに対して思わず笑ってしまったエボシの意識レベルは、まるで、すべての認識は時代や環境の制約下にあり、「曇りなき眼」など有り得ないという、僕ら(構造主義以降の)現代人と同じなのであろう。しかし、エボシはその素朴さ(真っ直ぐさ)ゆえに、逆に、アシタカを信用するのである。

また、彼女の支配するタタラ場は、女性上位の世界である。アシタカも「いい村は女性が元気だと聞いています」と言うが、このタタラ場も活気があって、楽しそうだ。ここでは、みんなで働き、みんなで食事し、みんなで笑い、みんなで戦う。宮崎駿のテーマの一つに自立というのがあるが、その意味でタタラ場は中世の理想郷ではないだろうか。宮崎駿が「もののけ姫」の舞台を江戸時代ではなく室町時代に選んだのは、その時代にはまだ、こういった理想郷がリアリティを持って描ける可能性があったからであろう。僕は、タタラ場の住民がみんなで一緒に笑う姿に、黒澤明の「七人の侍」で、菊千代のヨタ話に、大声をだして笑う農民達を思い出した。

さて、僕は、本来、日本人は自立心の高い民族ではないかと考えている。名字の多さ、家紋文化の発達というのは、そういった日本人の自立心が強かった歴史の名残であると僕は考えている。
中央集権となったのは明治以降の話であり、江戸時代は藩単位での自治が認められていた。さらに、その前の室町時代には、村落単位でかなりの自治が許されていたのである。
しかし、いつの時代にも、いい面があれば、悪い面もある。この時代は、近隣や別の勢力との戦いの絶えない戦争の時代でもあったのである。
この「もののけ姫」には、この時代の自由と自治、周囲との緊張感を人間VS人間、自然VS人間、自然VS自然という各層で丁寧に描かれている。
勿論、その後の歴史において、こういった自由闊達な空気は、徐々に抑圧されて、日本人は平和や秩序を重んじるおとなしい民族になってしまうのであるが、「もののけ姫」は、それが描く理想的な民の精神が一つの日本民族の可能性としてあり得たということを、僕らに想像させてくれるのだ。

さて、一方の自然界の方の話に移ろう。

むかしこの国は深い森におおわれ、そこには太古からの神々がすんでいた。

これはこの物語の冒頭に画面に表示される文句である。日本というは、本当に緑溢れる豊かな土地である。日本人が全てのものに神々が宿るという信仰を太古から現代まで持ち続けたというのは、ある意味、当然のような気がする。
ちなみに「日本書紀」には、天から追放されたスサノウとイソタケルは、天から持ってきた木々の種を、朝鮮では植えず、日本に植えたために日本は緑豊かになったということがわざわざ書かれている。

この「もののけ姫」は、このように太古からの原生林(=神々が住む森)が、人間が作り上げた里山となった歴史的転換点の話だということも言える。
勿論、日本人にとっては里山も山の神が居る「神の領域」ではあるのだが、そこに居らっしゃる神は、春になると田に降りてきて一緒に田植えをしてくれるような善神のイメージなのである。おそらく宮崎駿にとっても、里山に存在するのは、トトロのような善神であり、原生林に存在するのは、モロや乙事主のような、時に凶暴な荒ぶる神であり、そのさらに奥にいるシシ神のような崇高な神であろう。
このシシ神のイメージが面白いのは、シシ神は他の下位の神にとっても神秘的な神、つまり上位の神というところである。
それゆえに、誰もシシ神の行動が読めない。時にシシ神は、人間であるアシタカの命は救ったが、乙事主やモロという神の命は助けなかった。
これは何故であろうか。
実は、それはよくわからない。しかし、この救済基準が不明というところが面白いのである。
それを例えば、乙事主の一族も、モロの一族も滅び行く種族であり、アシタカにはまだ明日があるからなどという解釈は僕にはつまらないように思える。
シシ神の振る舞いとは旧約聖書において神(ヤハウェ)がアベルの贈り物は受け取ったが、カインの食物は受け取らなかったのと同様に気まぐれで理不尽な行動だと思うのだ。

しかし、人間(エボシ、ジコ坊)はそのシシ神を殺してしまう。
そして、シシ神は夜になると、首なしデイダラボッチと化して半透明のドロドロした物質になり野山を枯らしてゆく。
しかし、朝となる直前に、アシタカとサンが、首を取り返すことによって、デイダラボッチは倒れるが、その倒れたところから新たな植物が生えてくるのだ。

ちなみに、このデイダラボッチの姿形は「涼宮ハルヒの憂鬱」においてハルヒが無意識的に作り出す閉鎖空間に出現する化け物を思い出すが、その死と再生の姿は、古事記からの類似でいえば、母親(イザナミ)のいる黄泉の国に行きたい(ようするに死にたい)と言って号泣して野山を枯らしたというスサノウや、そのスサノウによって殺されて倒れると体の各部分から植物が生えてきたというオオゲツヒメの神話を思い出す。また、柳田國男によると、世田谷区の代田や、台東区の千束、大田区の洗足池といった東京の真ん中にも、このダイダラボッチ信仰の痕跡があるという。興味深い話ではないか。

そして、最後に、再生した草が茂った丘の上でサンとアシタカはこんな会話をする。

サン、見てごらん。
よみがえっても、ここはもうシシ神の森ではない。シシ神様は死んでしまった。
シシ神は死にはしないよ。命そのものだから。生と死と二つとも持っているもの。私に生きろと言ってくれた。
アシタカは好きだ。でも人間を許すことは出来ない。
それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮そう。

この会話に代表されるように、一般的には「もののけ姫」のテーマは、「自然と人間との共生」、あるいは「生きる思想」といわれているが、僕が興味深いのは、最終的にもサンとアシタカのシシ神論が食い違っているところである。

この違いとは何か。話の中盤で、サンはシシ神がアシタカを助けたことにより、アシタカを信頼する根拠としていた。つまり、サンにとってのシシ神とは「シシ神がいいと言えばいいし悪いといえば悪い」絶対的な存在であり、かつ、モロ一族(狼)が住める原生林を作ってくれた創造主(父)のような存在である。
一方、アシタカにとってのシシ神とは、信仰対象というよりも、自然法則のようなものである。だから、シシ神という形象は滅びても、自然の理は残るという解釈なのではないだろうか。
しかし、その論争(?)の決着を、この二人はつけようとはしない。それぞれの意見を聞くにとどまる。

そして、この二人の思想のズレは、ずっとズレたままである。それは、二人が一緒に暮すことができないという現実(運命)を示している。先ほども述べたが、ここでもアシタカはブレたり、迷ったりはしない。あるいは、サンを説得してなんとか一緒に暮そうというような話もしない。
この二人の関係は、昨年公開されたジブリアニメ「借り暮らしのアリエッティ」における小人・アリエッティと人間・翔との関係に引き継がれているのだろうか。

つまり、その意味で、ちょっと意地悪な言い方をすれば、アシタカは自分が縛られている特定の内的な制約(掟)の範囲からは出ようとしない、つまり、実存主義的ではない(行動する以前に彼の性格や属性は決められている)ということも言えるだろう。それは別の言い方をすれば、近代的な意味で、成長しようとしないということでもある。
しかし、この成長しないということも神話の登場人物の大きな特徴である。だから、そんなアシタカの毅然すぎる態度を誰もおかしいとは思わないのである。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中