「けいおん!」という商品をぎりぎりのところで作品に踏みとどまらせたもの

2009年のテレビアニメシリーズで異例の大ヒットを記録したという「けいおん!」の第一期テレビシリーズを全話観了した。

この作品は、元々は4コマ漫画だったものが、京都アニメーションによって制作されたもので、一般的に言えば、同スタジオの得意技である日常系(空気系)アニメの系列(「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年)「らき☆すた」(2007年)等)に並べられうる作品である。

ちなみに、空気系とは、「主にゼロ年代以降の日本のオタク系コンテンツにおいてみられる、美少女キャラクターのたわいもない会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品群のことで、美少女キャラクターを萌えあるいは性愛の対象とする消費者にとって不都合な存在である男性キャラクターはあまり登場しない傾向にある」(wikiより)ということである。

確かにその通りだ。この「けいおん!」(第一期)では、男性キャラどころか、男性自体がほとんど登場しない。
僕の記憶によると、少しでも意味のある登場は、楽器店の店員と、バンドメンバーの一人・ムギの家の執事(声だけ)だけである。
その他で、敢えて言えば、姿だけの登場というレベルだが、主人公のユイの両親の後姿が1カットと、学校の男性教師が数カット、道でぶつかった人(二度)。あとは、学園祭の時のお客さんや街の通行人等、背景としての存在くらいであろうか。

しかしよく考えてみれば、アニメの歴史とは、男性の存在感、(あるいは、マッチョ主義)がどんどん希薄になっていく歴史ではなかっただろうか。

例えば、80年代の代表作、「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」(1984年)におけるアタルは、性欲の塊のような男で、ラムちゃん以外にも女性が大好きだった。また、大友克洋の「AKIRA」(1988年)では、女性がボコボコに殴られるシーンが出てくる。さらに、「王立宇宙軍」(1987年)では、主人公のシロツグは女性をレイプしようとすらする。
あの時代、そういったマッチョな表現が、ある意味、当たり前だったのである。
そして90年代、アニメは女性上位の時代に以降するのである。
例えば、90年代を代表するアニメ(漫画)である「攻殻機動隊」では、草薙素子というカッコいい女性が一番、目立つようになった。また、「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)では主人公・シンジは、情けない男として描かれており、彼女の上司はミサトというイケイケの女性であった。
さらに、ゼロ年代、主役は女性、男性は傍観者(批評者)という作品が目立つようになる。
例えば、この時代の代表作「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年)におけるキョンは、完全にハルヒに振り回される脇役を演じているし、「化物語」(2009年)のアララギも戦場ヶ原を前にすると似たような立ち位置に置かれるのである。
その流れからすれば、この「けいおん!」において、男の影が極薄になったのは時代の流れかもしれない。ちなみに、この流れは「魔法少女まどか☆マギカ」にも続いている。

さて、話を戻す。
この「けいおん!」のストーリーは極めて単純である。ある高校の軽音楽部がメンバーを集め、一緒に勉強を過ごし、合宿し、文化祭で演奏し...というのを2年繰り返すだけである。
メンバーは全員で5人(一人だけ下級生)。顧問の女教師と、主人公・ユイの妹ウイ、幼馴染のノドカ。
つまり登場人物は、8人の女性だけと言っても過言ではない話である。

勿論、その中の人々では、若干の葛藤があることはある。
リーダーでドラムのリツと幼馴染のベース・ミオの心が微妙にすれ違ったり、新入生のアズニャンが上級生の4人があまりにも練習しないのに対して反発したりはするのだ。
しかし、それらの心のぶつかりは、いつの間にか、解消される。そして、彼女達は、基本的には大抵、いつもダラダラと部室でお菓子を食べているのである。

そして、たまに「合宿をどうするとか」、「ギターを購入しなければ」などという「問題」が生じて、バタバタはするのだが、結局は、メンバーの一人・キーボード担当・ムギの家が大金持ちという設定によって、乗り越えられてしまう。

具体的には、合宿は、スタジオや機材が何故か完備されたムギの家の別荘で行われる。(2年の夏はさらに設備がバージョンアップしている)
また、ユイが25万円のギターを買いたいけど5万円しかない状況では、その楽器店がムギの父親の会社の系列という設定で、強引に値引きしてもらっちゃうのだ。

ここまで読んでいただいた方で、このアニメをご覧になっていない方がいたら、「なんとユルい」アニメかと思われると思うが、しかし、実は、このユルさが、まことに持って居心地がいいのである。

さて、この話は、その冒頭で、主人公のユイが入学式の日に寝坊をして、「遅刻!遅刻!」と言いながら学校に走るシーンで始まる。

僕はここに注目をした。
まさに、相原コージと竹熊健太郎の「サルでも描ける漫画教室」にもラブコメの典型例として上げられているような、あまりにもベタな導入部分だからである。
そして、本来の典型パターンであれば、途中でどこかの男子生徒とぶつかり、そこで恋が始まる...というところなのである。

しかし、この「けいおん!」では何も起きなかった。ユイは、そのまま学校に行って、入学式に出席するのである。
つまり、この冒頭のシーンは、そういった過去の典型を逆手に取って、「このドラマは結局は何も起きないドラマなんですよ」というメタメッセージを僕らに宣言しているのである。

そして、面白いことに、全く同じようなシチュエーションが最終回の学園祭でのステージに遅刻しそうになるシーンでも繰り返され、ユイの頭の中には、入学式の日の遅刻シーンがよみがえる。
そこで、ユイは入学したての頃の”何をしたらいいのかわからなかった自分”に対して、こう独白するのである。

ねぇ、あたし、あの頃のあたし。
心配しなくていいよ。
すぐ見つかるから。
あたしにも出来ることが、夢中になれることが
大切な、大切な、大切な場所が...

つまり、何も特別なことが起こらない日常生活の積み重ねが培った平凡な女子高生のささやかな成長、あるいは成長とも呼べないくらいの変化、このわずかな偏差こそが、「けいおん!」のテーマだったということである。第一話と同じようなシーンが最終話でも繰り返されるのはそのためなのだ。

しかし、よく考えてみれば、人は日々の営みを「終わらない日常」と言って、憂鬱になったりもするが、そこにしか、人々の成長がないし、物語はないのである。
そして、実は、その物語には、奇跡や怪異、あるいは、不治の病や突然の死すらも必要が無いのかもしれない。
そんな当たり前のことを、この「けいおん!」は主張しているのである。

そこには、それまでのアニメに見られるような、宇宙人や未来人や超能力者やが出て来たり、怪異が起こったり、地球を救う使命が与えられていたりという設定の方が、実は、異常でワザとらしい演出だったのかもしれないではないか。

深い意味に満ちたアニメを見慣れてしまっていた僕は、実は無意識的に、ユイの家の隣にある神社に対して”怪異前兆フラグ”を立ててしまっていたいた。
また、入部時のユイとリツとの会話にジミー・ページ、ジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベックといった往年の名ギタリストの名前が登場したり、ユイがギターを購入する際に、何故か、レスポールにこだわる、その嗅覚などをして、今後起こりうる「音楽的奇跡」の伏線ではないかと疑ったりもしていた。
さらに、物語の随所に散見された「ユイは実は天才なのではないか」というフックが、妙に引っかかっていたのである。

しかし、終わってみると、それらは見事に張り捨てられた伏線であった。そこには深い意味などなかったのである。

例えば、この作品の軽音楽部のメンバーと同じ京都アニメーションのヒット作「涼宮ハルヒの憂鬱」のSOS団とのメンバーを比べてみると面白いことに気づく。
軽音楽部のメンバーが、この部に入部した動機は、どれも全く必然性がない。リツは、部員が一人も居ないから、部長になれるかもしれないと入部を決める。ミオは、幼馴染というだけで、そのリツに強引に誘われる。ムギは本当は合奏部に入ろうとして間違えて入ってしまったし、ユイも軽音楽を軽い音楽だと勘違いして入部してしまったのである。つまり、彼女達が一緒にロックをする必然性など、実は全くなかったのである。

ちなみに、それがゆえに、彼女達は常に、自分達の結束を確認する必要があった。部室における菓子を共食(きょうしょく)し続けるのは、逆に言えば、そうでもしないと絆が保てないからでもある。

一方、「涼宮ハルヒの憂鬱」のSOS団の方も、一見、どのメンバーも、具体的な経緯としてはハルヒに強引に入部させられたわけであるが、実は、それぞれに深い必然性があったことがわかるのである。キョンはハルヒが過去にハルヒに出会っていたジョン・スミスだし、長門はアンドロイド、古泉はエスパー、ミクルは未来人なのである。つまり、彼らがそこに居ることは深いところで意味(根拠)があったのである。

この”背後の異世界”の有無こそが、「涼宮ハルヒの憂鬱」と「けいおん!」の一番大きな違いである。いや、さらに言えば、その意味で、「けいおん!」こそが、最大の涼宮ハルヒ批判アニメなのであり、現実の奥にはさらに深い世界が存在するというオタクの妄想批判にもつながっているのである。

しかし、当たり前の話であるが、「けいおん!」における、無根拠な共同体、そして、”何か起きそうで何も起きない世界”の方が圧倒的に現実的ではないのだろうか。そして、そんな脆弱だった共同体でも、日々の営みを繰り返し、時間をかけて信頼を醸造すれば、お互いが入れ替え不可能な存在となりうるということ、その豊かな関係性の形成は、少女達のささやかな成長と並んで、「けいおん!」のもう一つのテーマなのではないだろうか。
例えば、最終話で、学園祭のステージの直前にユイが風邪で寝込むという「ピンチ」に、妹のウイが変装して、みんなの前に現れ、音合わせをし、むしろユイよりも正確な演奏をして、みんなをいぶかしがらせるシーンが出てくる。
この変装は、顧問のサワちゃん先生によって見抜かれるのだが、その時、音楽的完成度という意味では優れていたウイのテクニックよりも、みんなが求めていたものは、ユイの個性という入れ替え不可能性であることに気づくのである。
おそらく、ユーザーの不快要素を極限に削った、ただの「萌え商品」としての「けいおん!」を、ギリギリのところで「作品」に踏みとどまらせた、この二つのテーマ性を僕らは見逃してはならないと僕は思う。

さて最後に、この、何か起きそうで何も起きない「けいおん!」的展開こそ、ゼロ年代後半の空気を、表現していたのかもしれないということもとりあえず指摘しておきたい。
しかし、それゆえに、一方で「何も起きそうもなかったのに、何か起きてしまった」今年の311以降の現実を後にして、「けいおん!」は、どのように変化するのかというのも興味あるところである。今年の12月には、「けいおん!」の映画版が公開されるという。
その作品がどれだけ、「311以降の日本」を捕らえているのか、あるいは捕らえていないかに注目である。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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