「攻殻機動隊」(S.A.C) それぞれの人間性

2002年にスカパー、2004年から地上波で放映された「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の全26話を観た。

一話完結の回と、複数話からなる「笑い男事件」の回が、混在しながら話は進行する。
とても、ここでその全貌を記すことは出来ないが、全体を通した印象で言えば、電脳社会を描いたSFと、それを描くことによって浮かび上がる「人間とは何か」という哲学的な問い、そして、サイバーテロ、政治疑獄や社会的不正事件(丸山ワクチン、薬害エイズ、グリコ森永事件等の実際に起こった事件を下敷きにしたと思われる)、戦闘アクションを絡めた内容は、素晴らしい。
しかも、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」という、隠喩に満ちた青春小説が一つの謎として絡んでくるという展開は、文学ファンの知的好奇心をも満たしてくれる。
ゼロ年代の日本アニメを代表する傑作であることは間違いない。

膨大な情報量、スペクタクルな展開、頻繁に生じる問題提起を、自分なり簡略化してにまとめさせていただくと、この話には、以下の4つのテーマがあるように思える。

1)機械に人間の魂が宿ることはあるのか。(タチコマの個性化)
2)人間が擬体化、電脳化していった先に残る人間性とは何か。(バトーと少佐の内面)
3)電脳世界における生き方とは(アオイの生き方)
4)現実社会での生き方とは(9課的生き方)

勿論、これはかなり大雑把なテーマ設定であり、上記4つに漏れる問題も多々あることを承知で、とりあえずまとめさせていただいたものである。

まず、1)であるが、これに関しては、比較的イメージしやすい。具体的には、第2話「暴走の証明」、第3話「ささやかな反乱」、第15話「機械たちの時間」といった単話がそのテーマを扱っている。
本来であれば、機械は機械であり、人間は人間であるが、機械が人間的要素(記憶や情報)を取り込んでいくと、その究極に感情が生れ、外から見ると、あるいは思い入れをした特定の個人から見ると、魂が宿っているかのように見える、そしてある臨界点を突破するとそれは実際に魂が宿る(かどうか)、という問題提起である。

しかし、よく考えても見れば、人間に魂があるのかどうかというのも実は怪しい話であり、いや、むしろ、現代では、人間活動は一切の物理現象であるという科学的な見方の方がメジャーである。しかし、一方で、人類は古来、人形や自然物にも魂が宿るという発想をしてきたのも事実だ。これがアニミズムである。
すると、機械に人間性(魂)を認めるというのは、ある種の偏見を取り除けば、実はそれほどハードルが高い発想ではないと思う。
例えば、第15話の「機械たちの時間」では、第9課の戦闘(補助)ロボットであるタチコマ達に、それぞれが情報や記憶の並列化(共有)をしても、時間が経ったり、特別な人間にケアされていくと、個性のようなものが生まれてくるという話である。
しかし、そんな個性は戦闘用ロボットには不要という少佐の判断により、タチコマ達は、介護施設や建設会社に払い下げられてしまうのであるが、第25話「硝煙弾雨」で、バトーがピンチの際に、三体が登場、自分達の身を犠牲にしてバトーを助けるのだ。そのうちの一体が自爆する瞬間に、黄色の油を流すシーンがあるが、それはまさしくタチコマが人間的感情を持ち意思的に行動したことを表している。

さらにいえば、この、個性化の究極が自己犠牲であることを示したタチコマの行動は、戦後日本社会が優先してきた個性尊重主義=生命第一主義という価値観のアンチテーゼなっているのだ。

また、第14話「全自動資本主義」では、既にその主である横瀬兼元(よこせ!金もっとのパロディか?)が死んでいるにもかかわらず作動し続ける投機プログラム。その横瀬の死体袋にトグサが三途の川の渡し賃として500円硬貨を入れてやるのだが、その夜、トグサの妻のPCが自動的に立ち上がり、確実に値上がりするセラノゲノミクス社の株を購入して自動的にシャットダウンする。これは、投機プログラムに宿っている横瀬氏の魂が、トグサに御礼をしたということなのであろう。

次の2)は、少佐における腕時計、バトーの筋トレで象徴されている。戦闘能力で劣ると言われていながら、何故、少佐は女性の擬体にこだわったのか、そして、サイボーグの体には無意味だとわかっていながら、何故、バトーはストイックなトレーニングを欠かさないのか。
それは、やはり、入れ替え可能な肉体に対して、入れ替え不可能な自分の原始的な肉体感覚の記憶、あるいは、情報としての記憶以上の「何か」、つまり、人間の心に刻まれた傷のような記憶こそが、究極の個性の根拠となりうるということである。

例えば、それは第10話「密林航路にうってつけの日」の中で描かれているバトーの葛藤にも見られる。彼は、その話の中で、レインジャー部隊時代に南米のジャングルで体験した悲劇のトラウマによって、一瞬、自己制御できなくなるのだが、最終的にはそれを克服する。この回における彼の心の揺らぎこそ、彼の中の人間が表現されている。

また、第13話「≠テロリスト」に登場する女性テロリストに対する少佐の一瞬の同情。これも、少佐も子供の頃に擬体化されたという体験から来る彼女の一瞬の人間らしさであった。
あるいは、第21話「置き去りの軌跡」における、既に無抵抗となったアームスーツへの、少佐の執拗な攻撃には、単なる復讐以上の抑圧された内面を感じさせるが、真相(深層)は謎である。
気になるのは、第12話「タチコマの家出 映画監督の夢」で、幻想の映画館でこぼした少佐の涙である。
彼女はあの映画館で、一体どんな映画を観たのであろうか。「確かにいい映画とも言えないくもないわね。」とその映画を斜に評価する少佐。さらに、「夢は現実の中で闘ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影しているだけでは死んだも同然だ。」と独自の論を展開するが、僕らは、この強がりにこそ、逆に少佐の人間らしさを感じてしまう。

さて、次に3)と4)であるが、これは、スタンドアロンコンプレックス(S.A.C)という概念の2面性という話でもある。

まず、一つ目の側面に関して説明しよう。
最終話「公安9課、再び STAND ALONE COMPLEX」において、少佐は、「笑い男」事件の主犯とされた電脳閉殻症だった少年・アオイとの図書館での会話シーンにおいて、彼の「オリジナルの不在が、オリジナル無きコピーを作り出してしまうなんてね。あなただったらあの現象をなんて名付けますか?」という問いの答えとして、このスタンドアロンコンプレックスという概念を出す。
つまり、それは電脳空間では、それぞれの個体が、情報や記憶を共有していくうちに、いつの間にかその総意として、架空の人格を作ってしまうという。そして、個々が無意識的にその架空の人格に沿った行動をとってしまう現象をこのように呼んでいるわけである。
ちなみに、古谷経衡氏は、自身のブログ・アニオタ保守本流の中の、sengoku38=笑い男説。尖閣ビデオ流出事件はリアル笑い男事件だ!というエントリーにおいて、昨年(2010年)に起きた尖閣ビデオ流出事件の際に生じた、sengoku38に対する賛同者(賞賛者)による無数の動画コピーが、このスタンドアロンコンプレックス(S.A.C)と酷似しているという指摘されている。

そして二つ目の側面であるが、それは第5話「マネキドリは謡う」(第26話の冒頭におけるトグサの独白にも登場)における荒巻課長の「我々の間にチームプレイ等と言う都合のいい言い訳は存在しない。あるとすれば、スタンドプレーから生じるチームワークだけだ。」というセリフに表現されている。
これは、一人一人が、スタンドアロンで最善を尽くすことの究極の形として、最高のチームワーク(コンプレックス)が生じるという第9課のポリシーである。

この二つは似ているようでいて、正反対の現象である。
極、簡略化して言ってしまうのであれば、1面目が無個性→個性という流れであり、もう1面が個性→無個性という流れということである。
つまり、一方は電脳空間における、無個性の果てに生まれる共同個性のようなものであるが、もう一方は現実社会における、個性のぶつかり合いの結果として生じる最高のチームパフォーマンスのことだからである。

そしてこの二つの生き方こそ、最終話における少佐とアオイとの生き方の違いとして描かれている。しかもそれは、演出として「ライ麦畑でつかまえて」に登場する象徴的なアイテムのやりとりと絡んでいるところが面白い。
まずは赤いハンチング帽。
これを反対にかぶるという仕草は、「ライ麦畑でつかまえて」のホールディング少年のスタイルである。この小説における赤いハンチング帽の意味に関しては、いろいろな議論があるようだが、僕は、ホールディングの自己防衛意識と過去への執着の意味だと思っている。というのも、ハンチング帽というのは、元々、狩りの際に、他者からの誤射を防ぐための防御の役割をする帽子であること。つまり、それは自己防衛意識ということである。
さらに、それを”逆に”被るということは、子供っぽさの象徴であると同時に、過去への執着も表している。
第26話の中では、この帽子は、荒巻による、アオイに対するリクルーティングが失敗した瞬間に、少佐からアオイに投げ返される。そして少佐が被っていたのと同じように、アオイも逆向きにその帽子を被るのである。
これは攻殻機動隊入隊という(他者とぶつかり合う)現実社会へのコミットをアオイが拒否したということである。つまり、電脳世界において、自己の殻に閉じこもる生き方を選択したということでもある。しかし、その生き方は、いざという際には、第二、第三の「笑い男」事件を起こす可能性を秘めた自閉という意味だと僕は捉えたい。

おそらく、アオイのホームグラウンドはあくまでも仮想空間なのである。それは彼が持っていた左利きのキャッチャーミットという矛盾したアイテムにも現れている。

ご存知の方も多いと思うが、この左利きのミットも「ライ麦畑でつかまえて」に登場するアイテムである。
そして、このミットの解釈もいくつかあるようだ。一つには、このミットは、左利きゆえに、ファーストミットではないかという解釈である。そしてそれは一塁を踏ませない役割という意味で、純粋無垢な妹フィービーの処女を守るという意味があるという。あるいは、ミットは、ただのグローブと同じ意味で使われているという説もある。
しかし、攻殻機動隊内におけるミットは、第11話「亜成虫の森」に具体的に登場するが、キャッチャーミットである。これに対しては、バトーが、「左利きのキャッチャーミットねえ、それは存在しそうで実際にはあり得ないって意味のネット隠語だよ。」と解説している。

実は、荒巻がアオイをスカウトする際に、「我々9課の9人目のレギュラーにならんか?」という言葉を投げかけているのだ。そして、アオイは、「でもやっぱりやめときます。それに残念ながら僕、野球が下手ですから。」という返事をしている。つまり、アオイは、キャッチャーにはならないという宣言をしているのである。

このキャッチャーというのは、勿論、「ライ麦畑でつかまえて」において、崖の縁で落ちそうになる子供を捕まえるという意味のキャッチャーを含意している。
そして、ここで、キャッチャーにならないということは、積極的に社会不正義(崖の下に落ちる事)に立ち向かうという第9課への参加を拒絶し、それを傍観する立場を取るという意味でもあるのだ。彼が授産院で肌身離さず持っていた左利きのキャッチャーミットとは、現実にコミットしようにも出来ない彼の矛盾した心の象徴でもあったのである。

そして、情報や記憶を共有した一心同体となった少佐とアオイは、生き方を別にするわけであるが、心のどこかにお互いがお互いを内包しているようにも思える。少佐にとって、アオイとは「なり得たかもしれないもう一つの可能性」であり、アオイから見れば、少佐のように現実にコミットする生き方は、いざという時には取りうるスタンスではあるものの、常駐する場所ではないということである。つまり、ここで二人は、上記に上げた二つのスタンドアロンコンプレックスの可能性に分かれて生きる道を選択したということなのだ。

しかし、ここで面白いのは、実は、少佐が選んだ道=公安第9課という「現実」は、一般の社会上では存在しないことになっている、つまり「架空の課」ということになっているということ、そして一方で、アオイが選んだ世界が生み出した「笑い男」というのは実体としては存在しえなかったのだが、一般の社会上では実在したということになっているという、このネジレである。

また、付け加えておけば、「ライ麦畑でつかまえて」にこだわったもう一人の人物、トグサは、第9課が消滅して3ヶ月間、まるで魂が抜けたような存在となってしまっていた。心のよりどころも失い、自分がなしてきた正義も確信できないでいる。彼は荒巻のような自分自身さえ信じていればゆるぎない「正義」に対する自信もなければ、少佐やバトーのような機能に徹することが出来ない。
彼はその3ヶ月間、ほとんど自閉的な日々を過ごすわけであるが、それを象徴しているのが、ビニールプールに浮かぶアヒルの玩具である。このアヒルは、まるでアオイと同じような赤いベレー帽を被っているのである(考えすぎか?)。
そして、ある日、精神の限界に達したトグサは、「ライ麦畑でつかまえて」を投げ捨て、「笑い男」事件を利用して賄賂を受けていた与党幹事長の薬島の暗殺を決心する。それは、傍観者の立場を捨て、現実にコミットして自己存在を確信するためである。
その時のトグサの姿は、まるで、同じように「ライ麦畑でつかまえて」の愛読者でジョン・レノンを暗殺したマーク・チャップマン、あるいは、70年代の名画「タクシードライバー」で、大統領暗殺しようとするトラビス(ロバート・デ・ニーロ)を彷彿させる。
しかし、ピストルを懐中に潜ませ、幹事長に近づこうとするトグサは、その直前にバトーに止められてしまうのだ。
幸か不幸か、この、情けない不徹底さこそが、トグサの人間性なのである。

さて、最後にもう一話題。
先ほども紹介させていただいた古谷経衡氏は、別ブログ「ニコニコアニメ夜話」の第22回放送 お題作品 『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』において、このS.A.Cを「陽」の攻殻機動隊であり、押井守るの劇場アニメ「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」を「陰」の攻殻機動隊であるとの発言をされている。
僕には、この感想はとてもよくわかる。
古谷氏は、その違いを、アニメの中で人間を描こうとする神山氏と、唯物論的に描こうとする押井氏との違いに帰着されている。
その通りかと、僕も思う。ただ、それを僕の言葉に言い換えるならば、TV版の方は、あくまでも人間界=第9課に価値を置き、最後に少佐がビルの屋上から飛び込むのはあくまでも、現実の世界であるのに対して、劇場版の方では、最後に少佐が人形使いと合体して飛び込んでいくのは、ネットの海=バーチャルの世界だということ、つまり、押井版では、具体的な人間が生きる現実世界に背を向けて、「自由」を選択することを最終的に肯定するところから来る「陰」の印象なのだということである。

そして、その違いが、一方の神山氏をして、2万人のニートを現実界に戻すヒーロー・滝沢朗の物語「東のエデン」を生み出させ、一方で、押井氏には「進化」した少佐のセリフとして、「人形達に声があれば、人間になりたくなかったと叫んだでしょうね。」と言わしめた次回作「イノセンス」を生み出させたのではないだろうか。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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