「図書館戦争」 絶対的な正義によってでも服従させられない「現実」 

家紋高校生のしんゆうさんが「表現の自由とは」を考えさせられた『図書館戦争』。というエントリーで批評されていたアニメ・図書館戦争を観た。

これは、非常に強い作品だと感じた。

舞台は2019年の日本。作中の世界では、平成ではなく、「正化」という元号が使用されていることになっており、それで言えば正化31年の日本が舞台ということになる。
その世界では、メディア良化法というとんでもない法律が施行されていて、出版物やメディア、ネットの書込みなどのあらゆる表現行為は検閲を受けていて自由な発言は極端に制限されているのだ。
しかも、その法律に基づいて組織されたメディア良化隊は武装し、図書館や書店から「不良図書」を排除しようとしている。
一方、それに対抗して、表現の自由を守りたい図書館側には、図書隊という武装組織が作られている。つまり、日本国内において、図書館を舞台に、メディア良化隊と図書隊とが武力抗争をしているという設定である。

主人公・笠原郁(かさはらいく)は、その図書隊の新人で、その才能を見込まれてタスクフォースと呼ばれる図書隊・防衛部の最前線部隊への配属となる。
物語は、その郁の日々の戦闘、苦悩、活躍などを描いた成長物語であるとともに、指導教官かつ上司でもある堂上篤(どうじょうあつし)とのラブロマンスとして進んでいく。

口うるさく叱咤する教官を、最初は嫌っている郁だが、厳しく接するのは本当は自分のためを思っているが故、ということを理解するにつれ、堂上に惹かれてくその姿は、体育会系恋愛パターンである。判りやすく言ってしまえば、「図書館戦争」はゼロ年代版の「スチュワーデス物語」なのである。

また、郁が図書隊に就職した動機は、「学生の頃に、本屋で、良化隊の検閲によって好きな童話を奪われそうになった時に助けてくれた図書隊員に憧れたから」という理由があったのだが、実は、その憧れの図書隊員が堂上であることを知って後、彼女は益々、堂上を男性として意識するようになっていく。
その構造は、まさに「あの遊び人の金さんが実は、北町奉行だった」り、「あの越後屋のご隠居さんが実は、先の副将軍・水戸光圀公だった」りという、いわゆる「後から知ったが実は...」構造の典型であり、あるいは、身近な人が実は高貴な方だったという貴種流離譚(折口信夫)の亜種(郁は憧れの人を王子様と呼んでいる)なのである。

僕が冒頭に、この「図書館戦争」が強い作品であると言ったのは、上記のような、典型の物語構造に支えられているからである。

しかし、僕は敢えて、この「図書館戦争」を別の角度からも観てみたいと思う。

先ほども少し述べたが、郁が所属する図書隊・防衛部であるが、これは「表現の自由」の拠点・図書館を守るために武装組織であり、図書館戦争とは、自主独立のための「正義」の防衛戦争ということであった。
それゆえに、郁をはじめとして、この隊の面々はそういった「正義」の戦争に対して、疑いを抱いていない。
勿論、僕も「表現の自由」という価値は大事だということはよくわかっているつもりだ。(ちなみに、僕はこのアニメのメディア良化法で思い起こされる「人権侵害救済法案」の国会提出問題には強い懸念を感じている。)
しかし、「表現の自由」が絶対とされ、疑い無き”善”とされるような価値観には、どういうわけか、逆に、微妙な”不自由さ=抑圧”を感じてしまうのである。
それは、この”不自由さ”が、図書隊が守ろうとしている「表現の自由」との間に、奇妙な軋みを生み出してしまうからではないかと思った。

これは、もしかしたら、戦後生まれの僕の感性が平和ボケしているために持ってしまった感情なのだろうか。あるいは、それほど、僕は相対主義に陥っているということなのだろうか。今後も考えていきたい。

しかし、このアニメは、この微妙な軋みに対しても、けっして目をつぶっているわけではなかった。
ほんの一瞬ではあるが、「表現の自由」という絶対的な正義によってでも服従させられない「現実」もあるというところをも表現しているのだ。

それは、第11話、水戸の戦闘の前夜にコンビニで、図書隊員の小牧が、偶然、良化隊員と鉢合い、帰り道で、その良化隊員と肩を並べて歩くシーン。
名も無き良化隊員は、小牧に向って、このようにつぶやくのだ。


お前たちと違って、俺達に志はない。
あるのは俺みたいなしがらみか、
出世のための辛抱か、
生活のために辞められないか...

例えは悪いかもしれないが、良化隊とは尊皇攘夷の志士を狙う新撰組、あるいはバスチーユ牢獄に押しかける民衆に発砲する外国人傭兵のようなものである。
いずれにしても、「正義」という尺度からすれば、それは、無意味な存在かもしれない。

しかし、僕は、良化隊員のつぶやきがどうしても忘れられない。いや、逆に愛着すら覚えてしまうのであった。

さて、翌朝、最後の水戸の戦闘は、「自由」という名前の良化隊の制服を磔にかけたようなアートの攻防に焦点が絞られる。
それは、ただの銃撃戦が、”正義の思想(図書隊)”と”プライド(良化隊)”の戦いになるということを意味した。

はたして、他者を愚弄する、少なくとも他者が愚弄されたと感じるような作品は表現と呼べるのだろうか、そしてそれを守るということが表現の自由を守るということだといえるのだろうか。そんな疑問も沸きあがる。
さらに言えば、その瞬間、良化隊の戦い自体が表現(=アート)になってしまったということ意味するのではないだろうか。ということは、図書隊がそれを阻止する「正義」は揺らがざるを得ないではないか...

さて、それはともかく、話を進めよう。
死をも恐れない良化隊は、体を張って、突進を繰り返す。それを図書隊が必死に防御する。
僕はいままで、多くのアニメで戦闘シーンを観てきたが、この水戸銃撃戦は、最もリアリティを感じる名場面の一つであったと断言してもいい。
そこには、戦いながら、戦いを畏れる超人ではなく、普通の人々の戦いが描かれていたからである。

そして、最終的には、図書隊はアートを守りきり、勝利で終わる。
物語としては全うな結末であった...と思う。

しかし、僕は、図書隊員による正義の戦いの勝利を喜びつも、プライドを守るために戦った名も無き良化隊員の惨めさにもある種の美を感じてしまうのであった。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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