「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」という能舞台と最後の桜見

攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」全26話を一気に観た。
見応えがあった。僕が敬愛するアニメ評論家の古谷経衡氏もニコニコアニメ夜話(第23回放送 お題作品 『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』)で語られているが、普通は、Vol.2モノはどうしても劣化してしまうものだが、この「攻殻機動隊 S.A.C.2nd GIG」は「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」と比べても全く遜色ない。それどころか、よりスケールアップし、より深化し、よりエキサイティングでエモーショナルな作品になっている。
監督をはじめスタッフの並々ならない意欲が感じられた素晴らしい作品であった。

物語は、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」の続き。公安9課が、ある事件の処理に成功して復活するところからスタートする。防衛問題、難民問題といった日本が近未来に遭遇するであろう社会問題を、かなり本格的に扱った内容になっており、しかも、攻殻機動隊シリーズ全般を通して扱われている電脳社会における人間性とは何かという基本テーマもしっかり押さえている。
また、311以降、日本の難題となっている原発問題にもその射程は延びていて、特に第三次世界大戦、第四次非核世界大戦後に、日本が放射能除去技術において、再び、経済大国に復活するというような設定は、それだけでも日本がこれから進むべき道をも示唆しているようで、興味深い。
さらに、それまでは脇役であったサイトー、ボーマ、パズなどにもそれぞれ光が当たる回があったり、課長の微妙な恋愛感情なども織り込まれていて、見所満載である。しかも、複数話を通して、少佐の生い立ちと、ほのかな初恋の話、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」に続いてタチコマに生まれた人間性(自己犠牲)の話も僕らを惹きつけて止まない。時間があれば、それぞれの回を、しみじみと何度でも見返したい作品であることは間違いない。
        ★
さて、「2nd GIG」を観るうえで、その時代(近未来)、日本は一時的な労働力不足のために、大量の難民を受け入れていること、そしてその難民政策として、日本の各地に難民居住区が設けられているということを理解しなければなるまい。

ここでは、その難民政策をめぐって、大きく分ければ二つの政策が対立している。一つは、難民の自治を認める(勝ち取る)動き、そしてもう一つは難民を押さえつけ、日本の国権を強める方向である。
この話では、この難民に対する二つの動きをそれぞれ、クゼとゴーダという二人のキーパソンの思想や行動によって代表させている。その二人について簡単に紹介しておこう。

まず、クゼであるが、彼は全身擬体のアンドロイドである。元々、自衛官であったが、アジア東北部への海外派兵の際に、そこに住む人民との交流をきっかけとして、自衛隊を除隊。
それから広くアジアを放浪し、独自のカリスマ性を身につけ、それぞれの土地で人民の心をつかんでいく。そして、日本の出島(長崎)の難民居住区の自治を大幅に認め、なかば独立した存在にしようとする革命的なリーダーにのし上がる。
彼は、聡明、冷静な上に腕が立つ(あのバトーを一対一の白兵戦で仕留めるほど)。しかし、彼の本当のカリスマ性は、現実世界のみならず、電脳世界において無数の難民達の心を一つにまとめあがるだけの心の広さと情熱を持っているところにある。まるで、近未来版チェ・ゲバラのような存在なのである。
ただし、ここで彼が唱える、一人一人が電脳社会において融合し、個別意思とは別次元の統一体になるという革命思想は魅力的ではあるが、その結末は誰にもわからないものである。

一方で、ゴーダは、内閣情報庁の補佐官という立場。権力の中枢に近いところにいる人間である。首相や官房長官といったような表の権力者ではないが、黒幕的な立ち位置で、全ての現実の動きをプロデュースしようとする。
ゴーダが描いたシナリオを簡単に記すと、それは、「個別の11人」という電脳ウィルス製作>難民問題への世論の関心喚起>難民居住区の独立の誘発>自衛軍VS難民義勇軍の戦闘>居住区の自爆と見せかけた米帝の核攻撃>難民問題の解決という相当に乱暴な道筋である。しかし、彼は自分では手を汚さずに、あくまでも黒幕に徹する。何故ならば、彼の本当の目的は、日本のためというよりも、自身のプロデュース力を誇示すること、そして、最終的には米帝に売り込むためだからである。

このように見ると、クゼとゴーダという二人は対照的な存在であることがわかる。クゼは自己の魅力(カリスマ性)によってミメーシスを起こし、他者の共感を得ることによって、理想を実現していこうとするタイプ、一方でゴーダは、他者をあくまでも道具として利用することによって、自分の思い通りに現実を動かしていくタイプである。

しかし結局は、両者とも、滅びてしまう。クゼは民衆を信頼したが、逆にその民衆によって裏切られてしまう。民衆は理想通りには動かなかった。つまり、「人は低きに流れるもの」だったわけである。冷たい見方かもしれないが、彼は踊らされていただけだったのかもしれない。結局は、人知れず、米帝のエージェントによって暗殺されてしまうのであった。
また、ゴーダのシナリオは、「米帝への売り込み」という点では成功であったのかもしれないが、少佐によって、「あら、そう?なら、死になさい!!」というあまりにも有名な一言であっさりと殺されてしまう。
ある意味、シナリオライターとしては、優秀であったが、現実界に生きる人間としてはあまりにもモロかったということである。

さて、この二人を考える上で、一つヒントになるのが、その二人の顔に対する考え方の違いだと僕は思っている。
一方のクゼは、子供の頃に飛行機事故に遭い、ほとんどの全身を擬体化した。そして大人になると、顔を美形化する。しかし、その表情は変らないようにしている。彼は話をするときも口は動かさないのである。他方、ゴーダも若い頃に事故に遭い、顔の右半分は醜化し、髪の毛は無いが、彼は擬体化を拒む。あくまでも生の顔にこだわるのである。

これは何を表しているのであろうか。

実は、ゴーダが製作した「個別の11人」ウィルスは、パトリック・シルベストルという架空の革命家の「初期革命評論集」を電脳内に格納していることがその発症の主因であった。そして、それを発症すると、発症者は幻の11編目が存在しているかのような錯覚に陥り、革命思想に洗脳されて、最終的には自決するようにプログラミングされているという。
そして、その幻の11編目こそ、「5.15事件を能楽と照らし合わせ評論したもの」という興味深い内容なのである。そこでは、革命とは能楽のようなものだという理論が披露される。
        ★
さて、能楽とは、他の演劇とは違って、本番の一回性に特別な意味を置く芸能である。
例えば、能に関する対談本(「能・狂言なんでも質問箱」)の中では、能の演目・「道成寺」の落ちてくる鐘に入る場面の稽古に関してこんなことが記されている。

葛西(聞き手):現代の言葉で言うリハーサル、何回か出来るんですか。
出雲(シテ方喜多流):1回ぐらいです。だけど、鐘には入りません。
葛西:入らないで。どうやって稽古するんですか。
出雲:申合せっていうのが二三日前にあるんですが、そこで鐘に向かっていって、さっきみたいにやるんです。しかし、申合せで、本来の位置を少しずらして、同じタイミングで、こっちはドン、ドンとやって、ピョンと飛び上がるときに、向こうで鐘をドーンと落とす。
葛西:つまり別々に稽古して、本番一回きりなんですか。
出雲:はい。
山崎(シテ方喜多流):本番で初めて入るんですからね。

能楽において、その本番の一回がどのようになるかは、演者も想像出来ない部分を残すということなのである。
その意味で、能楽とは、再生芸術ではない。それは、現世に怨みを残した怨霊を成仏させるために執り行われる儀式のようなものと考えたほうがいいのかもしれない。

つまり、能楽とは舞台の上で完結する見世物ではなく、実際の怨霊を鎮めることによって、観客が生きているこの現実世界を改変する”事件”なのである。

そして、一般的に、能では、シテと言われる超自然的な存在(亡霊、天狗、鬼など)は面を被り、その怨念を吐露する。また、ワキと言われる聞き役(僧侶が多い)は面をかぶらずに、シテにその想いを語らせ、成仏させる。それが世阿弥が大成させた夢幻能の基本パターンである。

ここで、「2nd GIG」に話を戻すと、まさに能楽におけるシテの役割がクゼ、ワキに役割がゴーダというアナロジーが見られるのではないかと僕は考えた。

クゼが代表しているものはまさに、抑圧された難民の心情という怨霊そのものである。それは、彼岸における思念である。
しかし、近未来の電脳社会とは、そういった思念が集合し、怨霊(高次の存在)として具現化して現世を揺さ振るかもしれない。
ある意味、クゼはその集合的怨霊の象徴的存在を目指すのである。それゆえに、彼は、個人の感情を抑えるという意味も込めて、能面のような擬顔をつけているのではないだろうか。

また、ゴーダは、そんなクゼが代表する難民の怨霊の想いを晴らしてやり、他の日本人達に理解させる一方で、難民(とその怨念)を手の上で転がすことによって、ある意味、成仏させながら、現実世界を改変しようとした。それにしても、ゴーダ自身は、ほとんど何もしない。
つまり、彼の役割こそ、ワキそのものではなのである。それゆえに、ゴーダは生顔なのであり、しかも僧侶のように無毛(しかも童貞)なのである。

しかし、あらゆる能楽が、結局は現実そのものを変えるのではなく、怨霊を晴らすことによって、現実認識を改変するのと同じように、クゼとゴーダによる壮大な能楽は、現実の難民問題を残したままに終わってしまう。そして、想い半ばにして、つまり、怨霊をこの世に残して、クゼはこの世を去ってしまうのだ。

最後に、公安9課の連中が神社の境内で桜見をするシーンでこの「2nd GIG」は終わるが、僕にはそれが、クゼの鎮魂のシーンに見える
そして、少佐が「桜の24時間監視は中止!今から仕事に復帰するぞ!!」と戦闘継続宣言をする。
人間は永遠に、現実問題、そして怨霊と闘い続けなければならない存在なのである。

まさむね
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。