「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」とアニメの倫理

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を観た。

Wikipediaによると、このアニメは、キネマ旬報オールタイムベスト・テン アニメーション部門7位、日本のメディア芸術100選アニメ部門選出、また、雑誌映画秘宝が毎年選定している映画ベスト10では2001年度に、アニメーション枠ではなくすべての洋・邦画を含めた中で1位に輝いているという。

確か、あの岩井俊二監督もこのアニメを絶賛していたというような話を聞いたことがある。この作品は、子供向けのアニメとしては異例に意義深い作品なのである。
僕も今回、初めてこの作品を観て感涙した。是非、僕と同じ世代(昭和30年代生まれ)の大人の方々に観ていただきたい作品である、そう思った。

以下、あらすじを簡単に記す。

時期はおそらく21世紀初頭(2000年位)、場所は埼玉県の春日部(が一応モデル)あたりの話である。「20世紀博」という昭和をテーマにした催しが全国各地で行われ、大人たちに大人気を博している。1970年代の大阪万博を模した会場には、特撮コーナーがあり、来場客が怪獣モノや魔法少女モノに扮した姿を、ビデオ撮影してくれる。
そして、しんちゃんのお父さん、お母さんもそのコーナーに夢中になっている。

この作品はいくら意義深いと言っても、基本的には子供向けアニメなので、ギャグが満載。それをただ笑って眺めることも出来る。実際に、僕の印象だと映画90分のウチ、半分くらいはカーチェイスなどの”おっかけっこ”であった。
しかし、その暗黙の制約の中でこれだけ奥深いテーマ性(これについては後で語ります)を実現しえたというのだから、その奇跡的なバランスは素晴らしいの一言に尽きる。

さて、大人が昭和ブームに酔いしれる中、そういった思い出を共有していないしんちゃん達子供はどうも面白くない。
そんなある日、大人たちは、仕事や家事を投げ出して、実際の生活でも”昭和”を始めて、ついには子供達を置き去りにしてどこかへ行ってしまう。
一方、残された子供達も、「お父さんやお母さんに会わせてあげる」という甘言に誘われて次々にバスで連れ去られてしまう。しかし、父母に会わせるというは嘘で、子供達は、昭和の世界に適応出来るように洗脳されるために隔離させられてしまうのだ。
実は、これら全ての状況は、ケンちゃん、チャコちゃんという二人をリーダーとする「イエスタディワンスモア」という組織によって仕組まれた“オトナ帝国”化計画であった。
それは、大人たちに”昭和臭”を嗅がせる(昭和の空気を味わせる)ことによって、最終的には、日本全部を昭和の幻想世界に閉じ込めようとする計画なのだ。

ところが、一癖も二癖もあるしんちゃんはそんな状況のオカシさを見破っていた。彼は父母を奪還し、元に戻すために仲間と一緒に立ち上がるのであった。そして、お父さん、お母さんに出会ったしんちゃんは、昭和臭に対抗するために、お父さんの靴の臭い=現実の臭いを、両親に嗅がせることによって、正気に戻させるのだ。
しかし、最初にその靴の臭いを嗅がせたときにお父さんが、現在の自分を取り戻す過程として脳裏をよぎった走馬灯のような過去のフラッシュバックは、僕らの琴線に触れる。

父親の自転車の荷台、女の子と一緒に歩いたほろ苦い思い出、高校時代一人で歩く田舎道、初めて上京した時の上野駅、新入社員時の失敗、しんちゃんが誕生したときの喜び、新築の家への引越し...

それら一つ一つのシーンは、勿論、全く同じではないにしろ、昭和生まれの僕らの人生ともシンクロする。
まるで子供のようにその場に倒れこんで、しんちゃんに、靴の臭いを嗅がされるお父さんの情けなくも人間的な姿に、僕らはどうしてもシンパサイズしてしまう。
そういえば、この作品の監督である原恵一氏は僕と同じ昭和34生まれなのだ。

しかし、最終的には、ケンちゃん、チャコちゃんの“オトナ帝国”化計画は、目覚めたしんちゃん一家の抵抗に遭い、そして、終いにはしんちゃんの「大人になりたい」という執念によって、潰えてしまうのであった。

勿論、物語的にはそれで正解だ。

僕は他のエントリーでも何度も書いているが、「ビューティフルドリーマー」の夢邪気の作り上げた夢の世界しかり、「火垂るの墓」の兄妹の非社会的生活しかり、「新世紀エヴァンゲリオン」の人類補完計画しかり、「少女革命ウテナ」における鳳学園しかり、「涼宮ハルヒの消失」における長門有希の夢しかり、「妄想代理人」におけるマロミが作り出す猪狩刑事の昭和幻想世界しかり、常に、偽りの幻想、あるいは社会から隔絶された閉じられた世界は打ち破られなければならない、それがアニメの原則なのである。

それにしても、他のどのアニメの幻想空間以上にこの「オトナ帝国の逆襲」で描かれていた昭和世界は魅力的だ。昭和の臭いを嗅ぐことによって、その魅力(引力)に思わず負けそうになるお父さんが思わず「懐かしすぎておかしくなってしまいそうだ!」と口走る、その気持ちが僕には痛いほどわかるような気もするのである。
この痛さこその、「オトナ帝国の逆襲」の秀逸な点だととりあえず言っておきたい。

そして、僕らの世代に共通のそんな感慨はこの作品が公開された数年後に、映画「ALWAYS三丁目の夕日」によって、より純度を増した形で世に出てくる。しかし、そこには「オトナ帝国の逆襲」で周到に用意された現実世界への「出口」はない。閉じられた夢の世界の話なのである。

その意味で、アニメの方が実写映画よりも、倫理的と言えるかもしれない。
それはおそらく、アニメという、より、幻想的なものを描くことに適したメディアゆえに持ちえた倫理観なのだろう。

しかし、その(閉じられた世界はかならず破られなければならないという)アニメの倫理は、ここ数年、”萌え世界”という閉じられた空間の出現によって、揺らいでいるようにも思える。

しかし、そのこと自体、僕は、100%批判されるべき現象なのかどうか、まだ判断がつかないでいる。

「オトナ帝国の逆襲」が公開されてから10年が経った今、その間、しんちゃん一家が戻って来た”現実世界”の変貌を見ると、益々、その迷いは深くなるのだ。

社会状況はますます厳しさを増し、就職して、結婚をして、子供が二人いて、持ち家があって...といったいわゆる普通の生活は、どんどん、手の届かない存在になりつつあるのではないだろうか。
さらに、多くの子供達は子供達で、しんちゃんがあの頃抱いていた「綺麗な女の人と付き合いたいから大人になりたい」という無邪気な願望は持ちにくくなっているのではないだろうか。
特にネット環境の充実によって、観たくない世界、知りたくない情報は、無意識的に排除して自分の幻想の楽園は益々作りやすくなっているのが現代である。「攻殻機動隊 2nd GIG」でクゼが言ったように、人は「低きに流れるもの」なのである。

もしそうだとすれば、ある意味で、最終的には視聴者を突き放さざるをえないアニメの倫理は持ちこたえることは出来るのだろうか。いや、逆に、そもそも、持ちこたえるべきなのであろうか。

う~ん、僕にはまだわからない。

まさむね
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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