おそらく、農民にとって星という存在はそれほど重要なものではない。
星が重要性を持つのは、山野を飛び回る狩猟の民、あるいは漁労の民、海上の民にとってであろう。
おそらく、月、星をシンボルにした人々はそんな狩猟・漁労民の流れを汲んでいたのではないだろうか。
例えば、平安時代、摂津の国に海に生きる人々がいた。
彼らは海上交通を請け負う、「渡り部」として名を馳せた。その渡り部から渡辺という姓が生れた。
そして渡辺家の代表家紋が、渡辺星である。
墓地等に行くと分かるが、いろんな渡辺氏(渡部氏などを含む)の墓の8~9割に、この渡辺星紋が付いている。
名字と家紋との結び付きがこれほどはっきりしている例を他には知らない。
さて、月星紋だが、東日本に多い。
全国では15位だが、宮城県で8位、新潟県で9位、岩手県、福島県、千葉県では10位となっている。
逆に少ないところでは、富山県で26位。和歌山県で22位、大阪府で20位。
月星紋を持つ有名人は以下。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人として評される。毛利家は大名として幕末まで続く。家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。
父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。武田氏の信濃先方衆の一人として活躍し、特に優れた槍の使い手であったため、戦国の三弾正に数えられ、槍弾正と称された。家紋は平方九星。画像は保科家墓所にて撮影。
甲斐八代郡石和の豪農・春日大隅の子として生まれる。武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田四名臣の一人として数えられる。信玄の衆道の相手も務めた。画像は大河ドラマ「天地人」での高坂昌信(大出俊演)。総合格闘家の高阪剛は子孫。
少弐資元の次男。千葉喜胤(祇園千葉氏)の婿養子となり千葉家を継ぐ。実兄・少弐冬尚が重臣龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援したが、逆に龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、肥前国勢福寺城で自害したという。家紋は八曜に三日月。
三河国額田郡浦部村出身。渡辺氏は松平氏の譜代家臣。槍が得手で「槍半蔵」と称された。三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。
高山氏は摂津国三島郡高山庄出身の国人領主である。信長、秀吉の家臣として活躍。山崎の戦い、四国攻め等に参戦。代表的なキリシタン大名として知られる。伴天連追放令の後、ルソンへ追放され、マニラで病没。家紋は七つ星。
尾張国御器所出身。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。勇猛さから鬼玄蕃と称された。本能寺の変による織田信長の没後は柴田勝家に従ったが、賤ヶ岳の戦いで敗れる。子孫は現在まで大分市で続いている。家紋は丸に三つ引両紋と九曜紋。
米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。伊達政宗の軍師役を長年務めた。仙台藩片倉氏の初代。小田原参陣、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど政宗の主要戦に参戦。白石城一万三千石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代に亘って白石の地を治める。
石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれる。秀吉の小姓として仕える。秀吉政権の五奉行の一人。家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図るが関が原の戦いで破れる。家紋は九曜紋と大一大万大吉紋。
室町幕府・幕臣・細川藤孝の長男として京都で出生。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相・細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。
出羽国出身。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。本姓は藤原氏。出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。九曜紋は細川氏から使用許可される。他に十六葉菊、仙台笹、仙台牡丹、五七桐、雪に薄、ナズナ、竪三つ引両紋等の家紋も使用。
父は甲斐国の戦国大名である武田氏家臣の小幡昌盛。武田滅亡後は、他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕える。関ヶ原の戦いでは井伊直政に属して戦功を挙げ、大坂の陣では豊臣方に与するが徳川氏に内通していた。墓所は池袋の法明寺。
松倉家はもともとは大和の筒井家の家臣。豊臣家の配下となるが、秀吉死後、東軍につき、関ヶ原の戦い、大坂夏の陣で功を立て、肥前日野江4万3千石を与えられて入封。苛政と搾取を行い、島原の乱の主因を作った。家紋は九曜。
豊島氏は平姓秩父氏の一族で武蔵国の名族。室町時代に太田道灌に敗れて没落。江戸城での初の刃傷事件を起こすが、一族の連座はまぬがれ、後に遺児は紀州藩に仕え徳川吉宗が将軍になった際に御家人になっている。画像は墓所のある法明寺本堂。
赤穂浅野家家臣木村惣兵衛の子として赤穂に出生。赤穂藩では馬廻り役・絵図奉行150石。通称は岡右衛門。はじめ大石良雄に神文血判書は提出せず、盟約には加わらなかった。家紋は三つ盛九曜紋。画像は高輪・泉岳寺の墓所にて撮影。
田沼意行(徳川吉宗に登用された旗本)の長男として江戸の田安屋敷で出生。家治の治世、側用人として権力を掌握。株仲間の結成、印旛沼開拓等の幕政改革を行う。父の代に七面大明神に帰依し家紋を七曜紋とする。画像は巣鴨の勝林寺の墓所にて撮影。
豊後国日出藩出身。読みは、ほあしばんり。三浦梅園、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人と言われる。日出藩の藩校の教授に任じられ、日出藩家老となり財政改革に行った。福澤百助(福沢諭吉の父)・村上玄水など数多くの門人を持った。家紋は七曜紋。
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の二説。江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で千葉道場・総師範。門下には浪士組幹部の山岡鉄舟、新選組幹部の山南敬助他、弟・定吉の弟子には坂本龍馬がいた。画像は本妙寺の墓所にて撮影。
豊後国日田出身。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ12歳で小普請組の川路家の養子となる。公海岸防禦御用掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺の墓所にて撮影。
信濃国筑摩郡栗林村(現在の長野県松本市島立)出身。代々医業と手習師匠を業とする家に生まれる。徳川将軍家の典医、宮内省侍医を拝命。 浅田飴(ノド飴、医薬品。)のルーツとなる処方を考案した。家紋は七曜星紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。
萩藩出身。藩士大組士中老 長井次郎右衛門泰憲の長男。雅楽は通称で、諱は時庸。読みは、ながいうた。高杉晋作、久坂玄瑞らの尊皇攘夷派と対立。坂下門外の変以降、排斥運動が激しくなり、自害した。家紋は二文字に三つ星紋。
江戸出身。父は、幕府の典医。読みは、くりもとじょううん。外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任。幕府による製鉄所建設や軍事顧問団招聘などに尽力。維新後は、「郵便報知新聞」の主筆を務めた。家紋の丸に五曜紋は善信寺の墓所写真にて確認。
肥前有田出身。名は中秋。読みは、たにぐちらんでん。師は広瀬淡窓。江戸に出て佐久間象山、佐藤一斎らと交わる。肥前鹿島藩の藩校弘文館の教授、権大参事を務めた。晩年は東京に私塾藍田書院を開く。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園にて撮影。
会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ悌次郎は別家として秋月姓を称する。会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い実質的指導者として活躍した。家紋は九曜。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
土佐国中浜村の貧しい漁師の次男に生まれた。漁に出て遭難、漂着して、アメリカの捕鯨船に救助され、先方で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。帰国後、薩摩藩、幕府などで通訳として活躍。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
高島藩出身。読みは、いいだたけさと。脱藩して上京し尊王攘夷運動に参加。親交があった赤報隊隊長・相楽総三を葬ったという。『日本書紀』の注釈書「日本書紀通釈」を完成させた。東京帝大などで古典を教えた。家紋は七曜紋。画像は青山霊園にて撮影。
石見国出身。津和野藩の御典医の家柄。森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、中村正直らと共に明六社を結成。「哲学」「芸術」「理性」「科学」「技術」など多くの哲学・科学関係の日本語を考案した。家紋は、変わり連子に月。画像は青山霊園の墓所にて。
陸奥国耶麻郡熱塩村出身。生家は会津藩領の商家(油商)。会津戦争では、敵味方なく、救済が行なった。後藤新平と出会い、無料診療所の全国設置を企画、台湾の救養活動を計画。女性初の藍綬褒章を受章する。家紋の九曜紋は、墓所の写真にて確認。
長門国萩呉服町萩藩医 和田昌景の長男として出生。桂家の末期養子となる。尊王攘夷派の中心人物。西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられる。丸に三つ星紋は桂家の家紋。小五郎時代につける。木戸孝允以後は、菊菱紋となる。
越後国頸城郡津有村出身。豪農、上野助右衛門の二男。江戸遷都を建白した。日本の近代郵便制度の創設者。1円切手の肖像になる。「郵便」「切手」「葉書」という名称を定め、郵便制度の父と呼ばれる。家紋は九曜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
鹿児島藩士・永山盛広の四男として出生。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋画像の丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋の剣四つ星部分は青山霊園の墓所にて撮影。
肥前国大村藩士・渡辺巖の二男として生まれた。坂本龍馬の依頼により薩長同盟締結実現のため、長州藩と薩摩藩の橋渡しをする。武術振興団体・大日本武徳会を結成。近代剣道の確立に尽力。家紋は三つ星に一つ引紋。青山霊園の墓所にて撮影。
佐渡島真野町新町生まれ。独語学者の司馬亨太郎は長男。独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じ、医学用語の日本語訳(蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwolffingerdarm)など)を多く作っている。家紋は十三曜紋。画像は青山霊園にて撮影。
肥前国平戸藩最後の藩主。茶人。読みは、まつらあきら。三男は、稲葉家、四男は佐竹家、五男は大隈重信、八男は井上勝の養子となる。平戸藩知事、宮内省御用掛、貴族院議員を歴任。家紋は三つ星紋。画像は染井霊園の松浦家墓所にて撮影。
播磨国姫路出身。郷士の子。読みは、まつおしげよし。北里柴三郎の岳父。大蔵省出納局長、主計局長、理財局長、第6代日本銀行総裁を務める。在職中には金本位制度の維持に取り組んだ。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
京都出身。渡辺時之進の長男。読みは、わたなべあつし。京都見廻組・肝煎として佐々木只三郎・今井信郎らと共に坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に加担したとされる。維新後は奈良県警の監察官を勤めた。家紋は渡辺星紋。
薩摩国鹿児島城下加治屋町出身。藩士の三男。黒木家の養子となる。読みは、くろきためもと。妻は、黒田清隆の養女。最終階級は陸軍大将。日露戦争では、第1軍司令官として活躍。家紋は四つ目車紋。画像は青山霊園の夫人の墓所の銀星紋。
江戸長州藩邸に生まれる。読みは、おかざわくわし。有吉明の岳父。尊皇攘夷運動に携わり戊辰戦争に従軍。維新後は陸軍に進み、監軍部参謀長、侍従武官などを歴任。陸軍大将となる。家紋は折敷に三つ星紋。画像は青山霊園にて撮影。
肥前国佐賀郡北川副村古賀出身。平尾家に出生し、古賀家の養子となる。徳仁親王妃雅子は玄孫にあたる。戊辰戦争では、秋田の戦いに功績をあげる。最終階級は、海軍少佐。後に海城学園を創設。家紋の九曜紋は賢崇寺の墓所写真にて確認。
信濃国諏訪郡出身。諏訪高島藩士の家に生まれる。読みは、わたなべくにたけ。生涯、独身であった。兄は伯爵・渡辺千秋。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。家紋は渡辺星紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
土佐藩馬廻役・二川周五郎の長男。後に阪井に改姓。読みは、さかいしげすえ。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争に従軍。日露戦争では後備第1師団長として奉天会戦を指揮。最終階級は陸軍中将。後に富士生命社長となる。家紋は四つ星紋。青山霊園にて撮影。
長門国出身。萩藩士宍戸潤平の三男で、曾禰家の養子となる。衆議院書記官長、第3次伊藤内閣司法相、第2次山縣内閣農商務相、第1次桂内閣蔵相、韓国統監を歴任。次男の寛治は芳川顕正の婿養子。画像は家紋の牡丹に七曜紋(青山霊園)の七曜部分。
三河国吉田出身。旧姓は豊田。豊田家は藩の医家。小説家・水上滝太郎は四男。慶応義塾に学び、卒業後同校教授、次いで塾頭となる。後に明治生命保険会社、明治火災保険会社を設立し社長となる。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
江戸出身。家は左官屋。母の星姓を名乗る。1892年に衆議院議員当選、同議長に就任。伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張る。第4次伊藤内閣の逓相に就任。東京市会汚職事件により辞任。東京市会議長在職中に暗殺される。画像は池上本門寺にて。
大垣藩出身。藩主戸田氏正の四男。読みは、とだきんどう。渡米し洗礼を受ける。キリスト教書店「十字屋」を設立。その後、日本独立長老教会を設立し自由民権運動の拠点になった。家紋は九曜紋。画像は本駒込・蓮光寺の墓所にて撮影。
彦根藩出身。読みは、そうまながたね。田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格と共に専修学校(後の専修大学)を創立。初代校長、初代学長を勤めた。横浜正金銀行(後の三菱東京UFJ銀行)取締役、頭取を歴任。家紋は九曜紋。青山霊園の墓所にて撮影。
長門国出身。読みは、わたなべしょう。吉田松陰の教えをうけ、14歳の時禁門の変に出征。日露戦争に出征し、奉天会戦後は、後備混成第5旅団長に発令され、韓国北部の平定作戦に参加した。最終階級は陸軍中将。家紋の渡辺星は、「華族家系大成」による。
近江国出身。彦根藩士・小川友八の三男。甲陽鎮撫隊として出陣。仙台で榎本武揚の旧幕海軍に合流して蝦夷地に移り、箱館総攻撃で負傷。その後、幕臣の並河省三の娘・ツネの婿養子となって並河姓を名乗る。家紋の月星紋は雑司が谷霊園にて撮影。
周防国都濃郡出身。徳山藩の中級武士の家柄。三女は穂積陳重の長男・重遠の妻。四女は藤田嗣治の兄・嗣雄の妻、五女は木戸孝允の孫・幸一の妻。日露戦争戦略を立案。最終階級は陸軍大将。家紋は二文字に三つ星紋と唐団扇笹紋。画像は多磨霊園で撮影。
陸奥国栗原郡出身。仙台藩士・千葉宅之丞の子。戊辰戦争に出征するも敗戦を経験。現日本国憲法に近い基本的人権の尊重を重視した私擬憲法「日本帝国憲法」(通称:五日市憲法)の起草者として知られる。家紋の真向き月に八曜紋は墓所写真にて確認。
長州藩京都留守居役・福原与三兵衛世民の二男。読みは、ふくばらとよのり。奇兵隊士として戊辰戦争に従軍し奥羽に転戦。台湾出兵、西南戦争、日清戦争にも出征した。最終階級は陸軍少将。家紋は一文字に三つ星紋。染井霊園の一族・実の墓所にて撮影。
越後出身。オーストリアにわたり、シュタインに公法、行政学をまなび、憲法調査のため渡欧した伊藤博文を助けた。帰国後、憲法、民事訴訟法の制定に参画。行政裁判所評定官、貴族院議員。家紋は丸に渡辺星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
甲斐国東山梨郡出身。祖は武蔵七党の西党という。読みは、たむらいよぞう。長岡外史や浅田信興が結成した「月曜会」に参加。日清戦争では、大本営兵站総監部参謀となるが、山縣有朋と意見が対立し帰国する。家紋は九曜紋。画像は青山霊園。
仙台出身。父・盛久は仙台藩士。本名は、国分高胤。読みは、こくぶせいがい。司法省法学校時代に、原敬・陸羯南・福本日南等と交わる。朝野新聞の記者を勤めて後、日本新聞に参加した。家紋の九曜に真向き三日月紋は多磨霊園の墓所にて撮影。
京都出身。読みは、おくよしいさ。宮内省雅楽局で雅楽を演奏し、また洋楽を教習した。複数の『君が代』の中で、奥の『君が代』が祝日大祭日唱歌に選ばれた。その他の作品には『天長節』『勇敢なる水兵』等。家紋は九曜紋。画像は染井霊園にて撮影。
宮城県出身。東京帝国大学教授、東京市技師長を兼任。衛生工学を研究し、東京、仙台、名古屋、高崎、鹿児島、漢口(中国)、釜山(朝鮮)などの水道敷設を指導。著作に「英和工学辞典」(共著)。家紋は九曜紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。
北海道日高様似に生まれる。本名は岡野敬胤。『半面』を創刊し新々派俳風を鼓吹した。俳書の収集に努め、集めた俳書は東京帝国大学の図書館に寄贈され「知十文庫」として収められた。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
岩手県盛岡市出身。盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男。拓大学監、東京女子大学学長、 国際連盟事務次長、貴族院議員を歴任。著書『武士道』は日本紹介の書として広く海外で読まれた。旧五千円札の肖像となる。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
岐阜県山県郡出身。読みは、うすいみかお。公務員、実業家、新聞記者など様々な職業を経験した後、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種・臼井霊気療法を創始する。家紋は月星紋。画像は杉並・西方寺にて撮影。
会津藩士・志田貞二郎の三男として若松に生まれ、16歳で会津藩家老・西郷頼母の養子となる。講道館柔道の達人で講道館四天王の一人。得意技は「山嵐」。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。家紋は角九曜紋。画像は長崎の大光寺の墓所。
松江藩の足軽奥村仙三郎の次男。東京帝大仏法科を首席で卒業。その成績は東大始まって以来、最高という。第28代内閣総理大臣任期中に昭和金融恐慌、満洲事変の発端となった柳条湖事件が起きている。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
水戸藩士・戸田道守の子として生れ菊池敬之進の養子となる。日露戦争では第4軍副官として出征し同軍参謀となった。軍事参議官、東京警備司令官を経て教育総監在職中に死去。最終階級は陸軍大将。家紋は九曜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
讃岐国出身。庄屋宮武家の四男。読みは、みやたけがいこつ。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行い、たびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。家紋は亀甲に七曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
尾張出身。旧姓は田中。欧米に留学し製糖業を研究。帰国後,母校東京高工(現東京工業大)教授。明治製糖の設立に加わり、明治製菓を設立。1923年から1942年まで明治製菓会長をつとめる。家紋の八曜に剣片喰紋は、鶴見総持寺の墓所にて撮影。
新潟県佐渡郡真野町出身。漢方医・山本桂の二男。有田八郎の兄。立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選。田中義一内閣、犬養毅内閣にてそれぞれ農林大臣として入閣。国粋主義的な政治思想の持ち主。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。
京都府綾部市出身。衆議院議員として6回の当選を果たした。第2次若槻内閣の拓務大臣に就任。鉄道大臣に異動し、内閣総辞職となるまで在任。その他、立憲民政党総務、顧問を務めた。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
京都府亀岡市出身。読みは、でぐちおにさぶろう。大本教の教祖の一人。肩書きは「教主輔」。生家は農家の上田家。出口家の入り婿となり名前を出口王仁三郎とする。出口家の家紋は抱き茗荷。上田家の家紋は丸に十字。大本教の神紋は十曜紋。
愛媛県松山市長町新町に旧松山藩士・池内政忠の4男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。本名・高濱清。俳誌『ほとゝぎす』に参加。俳壇に君臨する。家紋は九曜紋。画像は鎌倉・寿福寺の墓所にて撮影した水桶。九曜が微妙にわかる。
愛知県出身。煙草店主・和田武右衛門の長男。後に農家・渡辺庄兵衛の養子となる。天皇機関説を擁護するなど、その自由主義的な意見は青年将校の憎悪を生む。二・二六事件の犠牲者。最終階級は陸軍大将。家紋は渡辺星。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
米沢市出身。父は米沢藩士。読みはさこんじせいぞう。近衛文麿内閣で商工大臣、鈴木内閣で国務大臣を務めた。第二次世界大戦末期、昭和天皇の聖断を仰ぐよう鈴木首相や米内海相に進言。最終階級は海軍中将。画像は九品仏浄真寺の墓所にて撮影。
愛知県士族で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生れる。永井家の氏は、大名・毛利家と同じ大江氏。また、三島由紀夫とは遠い親戚に当たる。代表作は、『ふらんす物語』『ぼく東綺譚』など。家紋画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
山形県出身。「読売新聞」「時事新報」「東京日日新聞」など新聞の社会部長、学芸部長を務める。「新感覚派」の命名者として知られる。宮城県遠田郡美里町の近代文学館に千葉亀雄記念文学室がある。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園墓所にて撮影。
山口県出身。旧徳山藩士・末次操九郎の次男。日露戦争に出征後、海軍大学校甲種学生を首席で卒業した。山本英輔等とともに艦隊派の中心人物。最終階級は海軍大将。第1次近衛文麿内閣の内務大臣。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
東京府出身。陸軍軍医・石黒忠悳の長男。読みは、いしぐろただあつ。妻は穂積陳重の次女。農政の神様と称せられ、その農政は石黒農政と呼ばれた。第2次近衛内閣、鈴木貫太郎内閣の農林大臣。家紋の七曜紋は谷中・天王寺の父・忠悳の墓地にて撮影。
新潟県佐渡郡真野町出身。山本家に生まれ有田家の養子となった。山本悌二郎の実弟。戦前は欧米協調派に対するアジア派の外交官として知られ日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放された。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。
佐賀県神埼郡千歳村大字崎村出身。本名、虎六郎。東京帝国大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の執筆で知られる。家紋は九曜紋。画像は松月院にて撮影。
高知県出身。読みは、みやじなおかず。内務省神社局考証課長、東京帝大講師(国史)、東京帝大教授(神道講座)等を歴任。戦後はGHQと折衝し神社存続に尽力した。代表著作は「神祇史」。家紋は丸に剣三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
長野県埴科郡の士族・小林藤太の五女。本名は小林正子。坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生。島村抱月と芸術座を旗揚げし『復活』のカチューシャ役で人気女優となる。『今度生まれたら』は日本における発禁レコード第1号。画像は多聞院にて撮影。
群馬県東群馬郡出身。開業医の長子。高村光太郎と共に口語自由詩を確立した。近代詩の頂点に立つ詩人として日本近代詩の父と称される。代表作は『月に吠える』『青猫』など。演出家の萩原朔美は孫。家紋は九曜紋。画像は政淳寺にて撮影。
神奈川県横浜市出身。東條内閣時は内閣書記官長に起用され東條英機の側近として活躍。戦後、東京裁判で終身刑を宣告されたが、釈放後は東京ヒルトンホテル副社長、東急電鉄取締役等、実業家として活躍。家紋は丸に七曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。
北海道函館市に出生。父は函館税関長。小津安二郎とは公私ともに良きパートナー。共作という形で『晩春』から『秋刀魚の味』までの全作品を手がける。日本脚本家協会・初代会長を務めた。家紋は八曜に蔦紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
岡山県生まれ。ロシア文学者・米川正夫の妹。幼い頃から箏を姉の暉寿(てるじゅ)に学ぶ。第一回地歌舞研究会を開催、関西の芸である地歌を東京に広めた。1966年、人間国宝、1981年、文化功労者。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
東京出身。本名は寿雄。小山内薫に師事する。「劇と評論」の同人。昭和11年NHK文芸部主事。放送劇「新諸国物語」シリーズは人気を博す。代表作「笛吹童子」「白鳥の騎士」「紅孔雀」。家紋は丸に三つ星。画像は雑司が谷墓地にて撮影。
愛知県出身。旧板倉藩士・戸長、馬淵栄吉の息子。支那派遣軍参謀(報道部長)を経て、大本営報道部長に就任。ジャワ島バンドンの守備に従事し終戦を迎えた。最終階級は陸軍少将。家紋の丸に剣三つ星は多磨霊園の墓所にて撮影。
滋賀県出身。父親の仕事関係で満洲で育つ。本名は田畔忠彦。雑誌「詩と詩論」創刊に参加し、詩集「戦争」で脚光を浴びる。戦後、詩、映画ともに対してネオリアリズムを標榜し、第2次「時間」を主宰。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。
東京府出身。読みはこばやしひでお。ソシュールの『一般言語学講義』を『言語学原論』として世界にさきがけて翻訳する。東京工業大学教授、名古屋大学教授、早稲田大学教授を歴任。家紋は丸に三つ星紋。画像は九品仏浄真寺にて撮影。
東京府出身。天皇機関説事件により貴族院議員を辞職した美濃部達吉の子。日本社会党を支持基盤とする革新都知事に就任。退任後は、参議院議員となる。家紋の丸に並び三つ星紋と対い銀杏紋は、谷中霊園にある従兄弟の美濃部洋次の墓所にて確認。
北海道十勝支庁中川郡出身。本名は萬城目侃。読みは、まんじょうめただし。美空ひばり、島倉千代子の歌を多く作曲。代表作は、「愛染夜曲」「リンゴの唄」「東京キッド」など。家紋は十曜に一引両紋。画像は、仙台市の龍雲寺の墓所にて撮影。
福岡県田川郡川崎町出身。本名は、向山コウメ。古賀政男が作曲した「ほんとにそうなら」でデビュー。全国人気の歌手の中で、「炭坑節」を最初にレコード化した。また、「黒田節」も初めてレコード化した。家紋の丸に一文字三星紋は父親の墓所写真より。
京都市出身。初代渋谷天外の長男。本名は、渋谷一雄。女優の浪花千栄子は元妻。2代目渋谷天外を襲名し、全国的に活躍。藤山寛美、曾我廼家五郎八等と松竹新喜劇を結成した。家紋は六つ割り星に片喰紋。画像は天王寺区宗慶寺にて撮影。
埼玉県秩父郡高篠村出身。読みは、あらふねせいじゅうろう。第1次佐藤栄作内閣第2次改造内閣の運輸相の時、自分の選挙区にある深谷駅を急行停車駅に指定したため世論の批判を受けわずか2か月で辞任。家紋は七曜紋。金昌寺の墓所にて撮影。
山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれる。中原家は代々吉敷毛利家の家臣だったという。旧姓は柏村。父・謙助は医師だった。夭折したが350篇以上もの詩を残す。代表作は『山羊の歌』『在りし日の歌』。家紋は九曜紋。中原中也記念館にて確認。
山形県米沢市出身。南画家の息子。本名は、鈴木寛定。息子はスタイリストの山本康一郎。「アジャパー」を大流行させる。代表出演作『てなもんや三度笠』『アジャパー天国』『駅前シリーズ』。紫綬褒章受章。家紋の丸に三つ星は墓所の写真より判断。
神奈川県横浜市出身。父は船具商。本名は東山新吉。昭和を代表する日本画家の一人。川端康成とも親交が深かったという。代表作品は『残照』『白馬の森』『黄山暁雲』など。家紋は丸に三ツ星紋。祖父の東山新吉の肖像写真より推測。
北海道夕張郡由仁町出身。実家は写真館。1957年文化放送にいた水野成夫と協力してフジテレビジョンを開局させた。産業経済新聞社社長・フジテレビ会長に就任し、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。家紋は九曜紋。画像は小平霊園墓所。
愛知県半田市出身。本名は新美正八(旧姓:渡辺)。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。代表作は『ごん狐』『デンデンムシノカナシミ』『手袋を買いに』等。家紋の丸に渡辺星は生家の渡辺家の家紋。
佐賀県出身。昭和6年兄登と組んで全国中等学校庭球大会ダブルスに優勝。戦前、戦後にかけて全日本ダブルス優勝3回、全日本学生ダブルス優勝4回。32年以来3回、デビス-カップ監督となる。家紋は丸に三つ星に一つ引紋。画像は上川霊園の墓所にて撮影。
山梨県中巨摩郡今諏訪村に生まれる。金丸家は、金丸氏は武田氏の庶流。酒造業を営む裕福な家柄。衆議院議員(12期)、国務大臣・副総理、防衛庁長官(第35代)、国土庁長官(第3代)、建設大臣(第34代)を歴任。家紋の九曜紋は墓所写真より判断。
東京出身。早稲田大学英文科卒。デビュー作は「秋祭」。老人と少女の交流を描いた「空の細道」で日本文学大賞受賞。代表作は「夜明けのランプ」「不吉な港」等。没後、全3巻の全集が刊行された。家紋は九曜紋。画像は本行寺にて撮影。
秋田県雄勝郡秋ノ宮村出身。本名は大野萬藏。幕内戦歴:271勝91敗74休。幕内優勝2回。第38代横綱。横綱時代は休場ばかりだった武藏山を除けばただ1人双葉山に勝ち越した力士。家紋は丸に五つ星紋。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。
愛媛県西条市出身。東京巨人軍に入団。川上哲治らと第1期黄金時代を築き上げる。二塁手としてベストナインを7回受賞。引退後は、コーチ・二軍監督を歴任し、近鉄バファローの監督となる。1980年に野球殿堂入り。家紋の九曜紋は、墓所写真にて確認。
神奈川県横須賀市出身。読みは、とくまやすよし。ワンマンで豪快な手腕で徳間書店、大映、スタジオジブリの社長を務める。代表総指揮作は『敦煌』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』。家紋は丸に三つ星に二引き。画像は青山・長谷寺にて撮影。
東京府豊多摩郡出身。NHK放送劇団、マイクフロントを経て 三木鶏郎グループに参加。ダイビングクイズの初代司会者。元祖デブキャラ。代表出演作「赤ひげ」「幕末残酷物語」「森繁の新婚旅行」等。家紋は丸に八曜に月紋。画像は小平霊園の墓所にて。
福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身。本名は渡部実。流行歌とは質の異なる望郷歌謡をヒットさせ、「演歌」という新天地を築いた戦後日本を代表する歌手の一人。代表曲は『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』等。家紋は丸に渡辺星。
東京都西巣鴨に出生。教育者巌本善治の長男である巌本荘民と、米国人マーグリトの間の長女。日本初の室内楽定期演奏会94回の偉業を達成。芸術選奨文部大臣賞、芸術祭奨励賞、毎日芸術賞などを受賞。家紋は九曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
東京府東京市本郷区曙町に生まれ育つ。ショートショートの神様と呼ばれ、生涯で1001編以上の作品を残す。小松左京・筒井康隆と並んで「SF御三家」と称される。星姓にはこの九曜紋が多い。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
東京都出身。渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。『渡辺晋とシックス・ジョーズ』を結成。レコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、巨大なナベプロ帝国を築く。家紋は丸に三つ星紋。
東京市下谷区出身。出生名はハンナン・サファ。日本名は六条祐道、結婚し湯浅姓となる。父親は、亡命カザン・タタール人。映画俳優や放送タレントとして活躍。多磨霊園の墓所にあるイスラムの象徴「三日月と星」を月星紋として拡大解釈した。
東京市神田区東松下町出身。映画『泉』で役者デビュー。1960年代後半から1970年代前半にかけての東映ヤクザ映画にて名悪役として出演。「連想ゲーム」「遠くへ行きたい」「くいしん坊!万才」等のバラエティ番組にも多数出演。家紋は渡辺星。
東京世田谷区赤堤出身。読みは、ゆあさのりあき。『大怪獣ガメラ』を監督。ガメラシリーズを続けて手がけ、人気シリーズに育て上げた。ガメラシリーズ以外の代表監督作品は、『岡崎友紀18歳シリーズ』『コメットさん』等。家紋は丸に渡辺星紋。
北海道上砂川町出身。医学博士。『光と影』で第63回直木賞を受賞。医療関連および中年男女の性愛を大胆に描いた作品が特徴。代表作は『光と影』『遠き落日』『失楽園』『鈍感力』など。家紋は丸に渡辺星。渡辺淳一記念館にて情報提供頂きました。
東京府出身。日清製粉勤務の正田英三郎・冨美夫妻の長女。浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の母親。日本赤十字社名誉総裁、国際児童図書評議会名誉総裁を務める。家紋は九曜紋。本家筋の正田記念館にある提灯より判断。
東京市下谷区出身。本名は久保智恵美。進駐軍のアイドルから「テネシーワルツ」でデビューを果たす。女優としても『サザエさん』『ジャンケン娘』等で活躍。私生活では高倉健と結婚、すぐに離婚。家紋は丸に剣三つ星紋。画像は法徳寺にて撮影。
東京市渋谷区出身。大蔵官僚・橋本龍伍の長男。祖父は岡山県吉備郡秦村出身。厚生大臣、運輸大臣、大蔵大臣を歴任後、第82内閣総理大臣に就任。行政改革、消費増税、普天間基地移転同意等に取り組む。家紋は七曜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
神奈川県横浜市出身。本名は鈴木傑。ギターを使った漫談で売り出し、「ボインやでぇ」のフレーズは有名。弟子に月亭八方など、孫弟子に八光などをもつ。桂米朝一門の定紋は結三柏であるが、月亭一門は変え紋として月紋を併用している。
山形県東田川郡山添村に果樹園などを営む豪農の家に生まれる。本名は富樫剛。第47代横綱。大鵬と共に柏鵬時代を築く。幕内在位:66場所。幕内最高優勝:5回。幕内成績:599勝240敗140休 勝率.714。家紋は九曜紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。
中国上海出身。東京新聞退社後、フリーランスジャーナリストとして活動。「フォーブス」「フォーチュン」などに寄稿。遺言によりニューヨークに財団法人「千葉敦子基金」が設立された。家紋は九曜紋。画像は谷中霊園寛永寺墓地にて撮影。
東京市本郷区出身。読みは、ひらおかまさあき。『韃靼人宣言』で評論家デビュー。主に文学や芸能の評論の分野で活躍。論評対象は、筒井康隆、山口百恵、三波春夫、大山倍達など。『浪曲的』により斎藤緑雨賞受賞。家紋の九曜紋は、谷中・経王院にて撮影。
東京都葛飾区出身。幼少期を千葉県千倉町で暮らす。本名は渡辺昇。電通退社後フリーとなる。ガロ等で多数の漫画も発表。村上春樹との共著に「村上朝日堂」「ランゲルハンス島の午後」等がある。家紋は渡辺星であることを自身のブログにて告白。
東京都出身。本名は渡邊匡。歌手・女優の黛ジュン (本名: 渡邊順子) は実妹。「恋はハートで」 で作曲家デビュー。代表作は『禁じられた恋』『津軽海峡・冬景色』『時の流れに身をまかせ』『夜桜お七』など多数。家紋は丸に渡辺星紋は墓所写真にて確認。
東京都出身。祖父は歴史学者の西村眞次。スポーツ、サブカル、政治、マスコミ論等の評論を行う。代表作は 『反日マスコミの真実2009』等。雑誌「ジャパニズム」の責任編集者。家紋は石持ち地抜き三日月に星紋。画像は多磨霊園の西村家の墓所にて撮影。
栃木県那須郡出身。父は外務大臣、大蔵大臣等を歴任した渡辺美智雄。安倍晋三改造内閣・福田康夫内閣で内閣府特命担当大臣(金融)を歴任。その後、みんなの党を立ち上げる。家紋の丸に渡辺星は議員会館の花瓶(画像)より判断。
兵庫県神戸市兵庫区出身。読みは、ひさもときぞう。東京大学を卒業後、自治省に入省。2012年11月、に神戸市の副市長に起用される。2013年の選挙で初当選を果たし、神戸市長に就任した。家紋は九曜紋。画像は、本人ブログの墓所写真より。
千葉県夷隅郡夷隅町出身。本名は、渡邊正行。ラサール石井、小宮孝泰とコントグループコント赤信号を結成し活躍。『関口宏の東京フレンドパークII』など数多くの番組でレギュラーを務める。家紋の丸に渡辺星は、自身のブログに公開した剣道胴着より。
新潟県北魚沼郡出身。「謙」は越後の戦国武将、上杉謙信に因む。代表出演作品は『独眼竜政宗』『硫黄島からの手紙』等。『ラストサムライ』でアカデミー賞助演男優賞を受賞。家紋の渡辺紋は杏anytime andanteにて娘の杏によって告白される。
茨城県水戸市出身。本名は小泉政人。現役時代は高砂部屋所属。現在は年寄・錦戸。パワフルな吊り気味の寄りを得意とし走る起重機の異名をとった。また大量の塩を撒くことも有名。幕内戦歴は530勝556敗99休。幕内最高優勝1回。家紋は九曜紋。
滋賀県高島郡安曇川町出身。読みは、わたなべあつむ。吉本興業所属。愛称はナベアツ。世界のナベアツと呼ばれ「3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります」というギャグで一世を風靡。家紋は丸に渡辺星紋。画像は自身のブログから転載。
東京都台東区浅草出身。コメディアンの東八郎の次男。本名は飛田貴博。萩本欽一の勧めで欽塾へ弟子入り。深沢邦之とtake2を結成。テレビタレントとして幅広く活躍。2012年5月に安めぐみと結婚。家紋は九曜紋。画像は父親・東八郎の墓所にて撮影。
滋賀県草津市出身。読みは、こうさかつよし。元スーパーヘビー級キング・オブ・パンクラシスト。ALLIANCE-SQUARE主宰。Mポジションからの脱出技、TKシザースの開発者としても知られる。先祖は戦国武将の高坂昌信ということから家紋は九曜紋と判断。
行友李風作の戯曲、及びそれを原作にした映画・テレビドラマの主人公。『国定忠治』とならび新国劇を代表する作品として知られる。雛菊「月様、雨が…」月形「春雨じゃ、濡れてまいろう」 という台詞が有名。家紋は名前から取られたと思われる月星紋。
西周の紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。