僕が期待するのは古谷ツネヒラ氏の文体である ~「フジテレビデモに行ってみた!」を読んで~

古谷ツネヒラ(古谷経衡)氏の「フジテレビデモに行ってみた! 大手マスコミが一切報道できなかったネトデモの全記録」を読んだ。

古谷氏に関しては、この一本気新聞でも何度か名前を出させていただいたことがあるが、僕は氏のブログ(「アニオタ保守本流」)を読み、アニメトークラジオ(「ニコニコアニメ夜話」を聞いて、アニメに目覚め、アニメを観始めた。その意味で言えば、僕にとって、古谷ツネヒラ氏は、お会いしたことはないが、ある意味、導師のような存在なのである。

僕が、彼のブログや今回発売された著書を読んで、まず直感するのは、その文体のユニークさである。

僕は学生の頃から、数多くの文体のユニークな著者達に惹かれつづけてきた。例えば、70年代には小林秀雄、夏目漱石、鈴木大拙などの作品に感心し、80年代には、柄谷行人、蓮實重彦、三浦雅士といった文芸評論家に憧れ、その後、井上義啓やターザン山本などプロレス記者の文章を読み漁り、同時に、スタパ斉藤や竹熊健太郎といった「ファミ通」近辺の濃い文体に驚愕し続けてきた。

独自の文体を持つ作家は、より遠くまで行ける

これは、三浦雅士の言葉であるが、僕は、古谷氏にも、そういった文体を持つ作家としての可能性を感じるのである。
例えば、「フジテレビデモに行ってみた!」の冒頭は、いきなり「一匹の恐竜が日本を歩き回っている。テレビ局という名の恐竜が」という小見出しから始まる。言うまでもなく、これは、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」の冒頭の一句を援用したものであるが、古谷氏の活動を追ってきた者が読むならば、それはマルクス・エンゲルスが記した文章であると同時に、耳の奥から「ビューティフルドリーマー」のメガネ氏(あるいはサクラ先生)の声がかぶってきたりもするわけで、おそらく、古谷氏の文体の独自性とは、その独特な硬派な言い回しの中に、そういったサブカル的文脈の多様性を知らず知らずのうちに、読者に想起させる、その豊潤さにあるのではないかと考えたりするのである。

敢えて言えば、古谷氏の発想の面白さは、大学の史学科を卒業したという公式の経歴でもうかがえるような本格的な歴史知識に加えて、庵野秀明、押井守、今敏や大友克洋などのアニメに対する深い愛情は勿論のこと、ゲーム(「信長の野望」など)、アーケードゲーム(「ガンダム」など)、軍艦プラモデル(「田宮模型」など)、軍記物(「大逆転シリーズ」など)、漫画(「闇金ウシジマくん」など)といったサブカル系話題、あまつさえ、猫(チャン太)に対する愛情や果ては不動産に対する異常な関心といった混沌とした興味対象から湧き出てくる雑多な「言葉達」を独自の「言い切り」によって再編成する、その強引さにある。

もっとも、学問的な体系ロジックを「良」とするような立場からすると、いささか、不躾と言われかねないところも無いわけではないが、僕は、彼が発する言葉や文章におけるそうした不躾な文体に、なんともエネルギッシュな魅力を感じるのである。
フランスの詩人・ボードレールは「人を唖然とさせるような精神」のことをダンディズムと呼んだが、古谷氏の場合、まさにその強引さゆえに、「現在、日本で最もダンディな男の一人」であるといえるのではないだろうか。

さて、この本の中身に関してであるが、正直言って、僕は古谷氏の主張に対して全面的に同意する者ではない。例えば、韓流コンテンツに関して言えば、僕は、特に韓国製だからといって、それを流すテレビ局に対して、抗議すべきだとは思っていない。
勿論、僕の耳にも、フジテレビの最大株主の一つがSBIインベストメントがあり、そこに韓国系ファンドが大量の資金を流しており、その影響かどうかは不明だが、局内で反韓流プロデューサが配置転換されたという程度の(噂)情報は入ってきてはいるが、それも所詮、他人事であり、韓流も、「芦田愛」「お台場合衆国」あるいは「踊る大捜査線」のような売れるコンテンツメニューの一つだと考えるからである。

それよりも、コンテンツが韓国製であるかどうか以上に、いわゆる公共の電波を私物化し、80年代に「楽しくなければテレビじゃない」などと言って無理やりに彼らがはじめ、しかし既に終わっているバカ騒ぎを、彼らが依存し続ける「システム」の利益のためのみに偽装し続けるその醜悪さに対して憤慨するものである。
おそらく、一つのコンテンツが受けるとわかると、まるで蟻が甘い物に群がるかのごとく、朝から晩まで、露骨な番組内宣伝をし続けても何の恥じらいも無い、あの傲慢さに我慢しきれず、どれだけ多くの良心的な視聴者がテレビから離れていったことであろうか。
しかも、尖閣事件や311震災などを経て、次第に明らかになった彼らの恣意的な(とでも思いたくもなる)報道姿勢や、そもそも根本的にクロスオーナーシップ問題や電波オークション先送り問題などといったマスメディア自体がもつ不条理な課題を前にして無力な僕らには、古谷氏たちがフジテレビ前で「テレビを返せ」と叫んだ、その気持ちは痛いほどわかるのである。

そしてその叫びは、僕の個人的な怨嗟感情をも呼び起こしてしまう。
この場を借りて、そんなフジテレビの傲慢さの例として、自分自身の体験に触れておきたい。

ほんの数年前、僕はある食品を昼の老舗番組に提供したことがあった。その際に、番組のADが会社にやってきて、「商品の代金は、番組のデスクに請求してください」という。
後日、僕は教えられた電話番号にかけ、そのデスク氏(女性)に、以下のように尋ねた。
「◎月×日の昼の△時に放送されたコーナーで提供させていただいた食品のご請求をさせていただいてもいいでしょうか。金額は5万円になります。」
勿論、これは、実費である。すると、デスク氏は無愛想にこう言った。
「聞いていませんが!!」
ちょっと、待って欲しい、それはないだろうと思ったので、僕は続けた。
「番組のADの△×さんから、こちらに請求するように言われたのですが...」
すると、しばらく黙っていたデスク氏はこう言ったのである。
「2万円にならない?おたくだって、テレビに出してあげたんだから、宣伝になったでしょ。」
僕は耳を疑った。いくら、こちらが無名な一業者だからといって、それは、あまりにも失礼な応対ではないか。

これは、古谷氏も「フジテレビデモに行ってみた!」の中で、語っている「テレビ屋による一般人に対する見下し」のほんの一例であるが、おそら、く現在でもこういった「見下し」は続いているのではないだろうか、多分。

さて、話は変るが、今後、古谷氏が、その有り余るエネルギーをどちらの方向に向けていくのかは、大変、興味深いものがある。それは、この著作を手にした読者の多くも感じることだと思う。
個人的には、第三期「さくらじ」で、年長者の話をうかがうホストというポジションから、再び、闊達で強引な言論活動(特にアニメに対して)に戻っていただきたい、などと勝手なことを思っているが、それは古谷氏と、その文体のみが知るところなのであろう。僕らはそれをただ見守ることが出来るだけである。

まさむね

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