「魔法少女まどか☆マギカ」とジャイアント馬場と古今集と

ちょっと前の話であるが、今年の文化庁メディア芸術祭の内覧会において、あの富野由悠季監督が「なんで、まどか☆マギカが一番なんだ!」と、審査員の一人の氷川竜介氏に詰め寄ったという出来事があり、それを氷川氏がツイートしたことで、ちょっとした話題となった。

それに対して、オタキングこと岡田斗司夫氏は、ニコ生シンクタンク2月号で以下のような解説をされていた。

岡田氏によれば、そもそも、富野さんが自身の作品の中で描こうとしたキャラクタと、「まどか☆マギカ」の中で描かれているキャラとは違うものだという。
キャラクタとは、作品の中に置かれ、物語が進むに連れて、紆余曲折を経て、どんどん厚みが増すような性質を持っているが、キャラは、ある特定の属性を持って物語に配置されるが、その後、そうした厚み(成長)を増すようにはならないのである。
そして、それは多分に、視聴者の嗜好によるものだと岡田氏は話を進める。

「まどか☆マギカ」を好きな人はキャラが好きなのであって、キャラクタのように物語の中で成長してしまうと、純粋性が壊れてしまうように感じてしまうのではないかというのだ。

そして、彼らが見たいのものは、キャラ同士の決め台詞の応酬であってその中のニュアンスというのは僕達が受け取るから、創り手はキャラ同士の応酬をやってくれたら、そこから行間を読むみたいにして自分達はセリフの間にあるものを受け取るからそれでいいんだという考え方であると推察する。
一方、それに対して富野さんがやろうとしたのは、一つのキャラが製作者に与えられた属性以外のものを身につけようとしている瞬間をみたいなものを出すことであり、それこそが、キャラクタに血肉を通わすということだったのではないのかというのだ。

さらに、岡田氏はこの違いを、時代の違いに求める。つまり、富野さんがロボットアニメを創作していた頃、アニメには、市民権がなかった。
そんな状況に対して、どうやったら、アニメが、文芸とか映画のような「本当の芸術」に追いつき、追い越すことが出来るのかというチャレンジをほとんど一人でやったのが富野さん、というのが岡田氏の富野さんに対する最大限の賛美である。

ただし、一方的に富野さんだけを持ち上げているわけではないのが岡田氏の面白いところである。
彼は、逆に、富野さんこそ、現在における作品と視聴者との関係性を理解できていないのではないかと、以下のようにまとめる。

現在のアニメとアニメ視聴者との関係性は、富野さんが思っているより、もうちょっとレベルが高くなっている。それは、見ている人間もクリエイトに参加しているからである。彼らは、「まどか☆マギカ」という作品よりも、「まどか☆マギカ」を見ながら、それをお互いネットで話し合ったりして自分達の中でまどかまどか像を作るということを含めての作品と考えている、つまり、作品がクラウド化している。ただし、それを、作品と考えるかどうかは別の話であるが...

さらに上記の発言に加えて、岡田氏は現代の視聴者の反成長の姿勢が、富野的ビルディングスロマンよりも、非成長的な「まどか☆マギカ」の方を好むのではないかというオタク論に話を進め、それはそれで誠に興味深いのであるが、これに関しては、このエントリーにおける本筋ではないので、また後日語ってみたいと思う。
以上、若干の補足と意訳をさせていただいたが、これが岡田氏の論旨である(正確にお知りになりたい方は、「ニコ生シンクタンク2月号」をご覧下さい。)。

さて、以下は僕の感想である。

これを聴いて、即、僕の頭に浮かんだのが、柄谷行人の「日本近代文学の起源」であった。
この本は1980年に出版された文芸評論である。
ここにおいて柄谷氏は、明治の近代化以降、「風景」「文学」「児童」「内面」といった概念が、この時期に自明なもの(起源を覆い隠すもの)として出来上がってきた人工物であり、決して自然なものではないという刺激的な論考をしている。
近年、東浩紀氏あたりも評価していたように記憶しているが、80年代初頭に文学部に在籍した者にとっては必読の書であった(、かも)。

何故、ここでこんな昔の本を持ち出してしまったのかといえば、僕は、この本を読んで以来、それまで、自然に感情移入していた映画や小説、そして当時最も入れ込んでいたプロレスといったものの見方が変ってしまったからであり、それはとりもなおさず、岡田氏が言うところの厚み思想、あるいは深み思想に対して、僕が、違和感を感じるようになった当時(80年代前半)のことを今、思い出してしまったからである。

以下、判りやすい例なのでプロレスについて語ってみたいと思う。

70年代後半~80年代前半のプロレスシーン(論壇)は、ほとんど猪木一色であった。猪木のプロレスというものは、当時、その思想的イデオローグであった村松友視氏が名著「私、プロレスの味方です」の中で書いているように、「暗黙の了解が壊れる瞬間があると信じるロマンの目」によって成り立つようないわゆる「過激なプロレス」であった。
それは、先の岡田氏の文脈で言えば、まさに「一つのキャラが製作者に与えられた属性以外のものを身につけようとしている瞬間」を描き出そうとするプロレスだったのである。
当時の猪木は、モハメッド・アリ、ザ・モンスターマン、ウィリーウィリアムス、といった格闘家と闘う一方で、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ローランド・ボック、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガンなどといった一流のレスラーと対戦するごとに成長し、苦悩し、時に英雄となり、一転、ヒールとなる、また同時に、プロレスというジャンル自身をも進化させていったのだ。あの時代、猪木は、まさに、最強にスリリングな存在だったのである。
おそらく、岡田氏が言うように、富野さんが、本当の文化に対するコンプレックスに対抗するために、アニメをキャラクター化するという独自の手法をあみだしたと全くパラレルに、猪木は柔道や空手といった本物の格闘技や、従来のプロレス(プロレス内プロレス)に対するコンプレックスを異種格闘技戦、あるいは、過激なプロレス発明することによって乗り越えようとしていったのではないか。
ちなみに、そんな猪木の全盛時代と、富野さんによる初代ガンダムシリーズが放映され、ブームとなっていた時期とが重なるというのは示唆的である。

しかし、僕は、「日本近代文学の起源」に衝撃を受けて以来、そんな猪木の勇姿が、不自然さに満ちたものに感じられ、逆に、多くのプロレスファンにウソ臭いと言われていたジャイアント・馬場に対してこそ、シンパシーを感じるようになってしまったのである。
そして、それを今、振り返ってみて、富野的教養主義と「まどか☆マギカ」の対比でいうならば、まさに、猪木的なキャラクター(プロレス)よりも、馬場さん的なキャラ(プロレス)に愛着を感じるようになっていた、ということなのだと思う。

確かに、猪木による、常に進化し続ける過激なプロレスに対して、馬場の世界(全日本プロレス)は、それこそ、ブッチャー、シークといった悪玉やファンク兄弟やミル・マスカラスという善玉を配した、安定したキャラプロレスが繰り広げられていた。
そのリングには、それぞれのレスラーがキャラを演じることだけを求められた牧歌的な世界があったのである。
そして、僕には、その世界が、ちょうど明治以降の近代的的制度によって過去へ追いやられてしまっていた江戸文化の香りにも通じるものとして感じられていたのだ。

例えば、ブッチャーやシークといった悪役に痛めつけられる鶴田を見るに見かねてリングに飛び込む馬場さんの姿は、まるで歌舞伎十八番の一つ『暫』における市川團十郎演じる鎌倉権五郎景政の登場のようであった。そこにあったのは、まさに、「決まりきったキャラ同士の台詞の応酬」(岡田氏)を見せてくれれば、それで観客が満足する世界である。

しかし、実はそれだけではない。そこには観る人にしか観られない、「通」それぞれの(勝手な)見識があったのである。
勿論、当時はネットなどは無いのではっきりは証明しようもないが、観客は一人一人、いつも決まりきった馬場さんの風体や仕草を、それぞれに無意識的にでも解釈していたのだと思う。ある者はそこに、高度経済成長の夢を投影し、別の者は、戦前の日本兵の朴訥な精神を見る。また、ある者は、田舎に残した祖父の背中の曲がった労務風景を思い浮かべて涙したり、別の者は、そこに七福神的な異形による来訪姿を見たかもしれない。

僕は、個人的には「馬場さんの居るリングは、ニュートン力学の物理法則をも超越している、何故なら、ブッチャーはわざわざ、馬場さんの振り上げた足に吸い込まれ、十六文キックを受け、さらに加速度をつけてリングに落ちて行くではないか。」などとつぶやいていたものである。

そう考えると、僕が、この歳になっても未だに「まどか☆マギカ」のようなアニメに対して興味を抱き続けてしまうのも、そして、家紋のような歴史に埋もれた意匠に対しても過剰な意味付けをして楽しんでしまうのも、その根源には馬場さん的なものへの愛情があるのではないかと考える次第である。

さて、話を「まどか☆マギカ」に戻す。

このブログを続けて読んでいただいている方にはお分かりとは思うが、僕はこのアニメで最も気になっている登場人物は、美樹さやかである(ご興味があれば「魔女になったSAYAKAの武器はなぜ、車輪なのか」「「魔法少女まどか☆マギカ」を信じるファンであるならば、誰しもが「美樹さやか -恋愛成就- 御守り」こそ身につけるべきである。」など参照下さい。)。彼女はその運命に従って、魔法少女となり、失恋し、闘いにくたびれ果てて、魔女になり、しかし、最後にはまどかによって救済されるという、このアニメの中では突出して痛々しいキャラである。

しかし、その最後の去り際が素晴らしいので、そのことを、ここに記しておきたいと思う。

最終回、まどかと二人で、片思いの上條君という少年(さやかの願いによって手が治る)の演奏を見ている。
既に死んでいるさやかには、上條君を眺めることしか出来ないのだ。
彼女は静かに、上條君への想いを諦め、その場から消える。
上條君は、その演奏を終えて、一息をつく。
その瞬間に、一陣の風が吹き、彼は、フッと何かに気づく。 そして、彼は口の中で「さやか」とつぶやくのだ。
これは明らかに、「秋きぬと 目には『さやか』に 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」 という藤原敏行の和歌(古今集に収録)の、和歌からアニメへの擬似的本歌取りかと思われる。
このような演出にこそ、近代以前の日本文化をさりげなく踏襲する「まどか☆マギカ」的な意味での奥深さを垣間見ることが出来る。ただし、それは、決して近代以降の日本文学が価値を置くような(「こころ」の先生や「路傍の石」の吾一が持つような)意味での奥深さではないのである。

もしかしたら、「まどか☆マギカ」の前に置くべきなのは、エヴァやガンダムではなく、ジャイアント馬場であり、世阿弥の能「葵上」であり、「古事記」や「古今集」であり、あるいは近松門左衛門の心中物なのかもしれない。

しかし、最後に言いたいことは、僕は、いくら猪木的キャラクターよりも、馬場さんのキャラの方が好みだとしても、あるいは、「成長」という概念も、近代以降、人工的に産み出されたものであるといった柄谷氏の批評に感銘を受けていたとしても、猪木的な、そして、おそらく富野(ガンダム)的な、自身の作品(闘い)が進化していくことが同時に、そのジャンルが進化し、さらにいえば、それが生み出された時代と連動しているのだという実感されうるような幸福な関係を築き上げた偉大なクリエイターのエネルギーに対しては惜しげもなく、天才という言葉をささげたいと思う。

まさむね

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<!–おそらく、富野さんが信奉するビルディングスロマンというものの捉え方が変った。なぜかと言うと、現在の視聴者は成長したいと思っていないし、登場人物の成長を描いてしまうと、取り残され感がするんですよね。
なので成長しないんだけどパワーだけが強くなる。仲間は増えるんだけど本質は変らないという方向を選ぶんです。
おそらく、猪木にとって、馬場さん的世界とは、隠蔽したいと思っていた自らの起源を、無意識のうちに思い出させるような、嫌な存在だったのではないだろうか。–>

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