残念ながら、今場所の把瑠都は、まだ横綱になるだけの器がなかったということか。

大相撲・春場所が終わった。
終わってみれば、最後は、横綱・白鵬の貫禄の優勝。これで22回目、あの貴乃花と並んだ。
おそらく、今年中に北の湖や朝青龍の記録を塗り替え、大鵬、千代の富士の記録に迫ることであろう、いや、彼ならば史上最高の優勝回数も決して夢ではないだろう。本当に凄い男である。
もし、彼に敵がいるとすれば、体調かもしれない。優勝インタビューの時に、中終盤の一瞬の失速に関して、古傷云々と語っていたが、それがどこの傷なのか、どの程度、傷なのだろうか?
敵に弱みを見せたくないのか、具体的には語ってはいなかったが、気になるところではある。

しかし、僕にとっての今場所の見所は、把瑠都の綱取りが成るかどうかというその一点だった。その意味で、誠に残念な結果となってしまった。

思えば、11日目の結びの一番の一つ前の相撲、把瑠都対琴欧洲戦で、一方的に把瑠都が敗れたあの瞬間に、僕にとっての今場所の興味は無くなってしまったと言ってもいいかもしれない。
敗戦後、本当に悔しそうな顔をしていた把瑠都。結びの一番の一つ前で相撲を取った力士は、勝敗に関係なく、土俵際に残って結びを一番を見なければいけないことになっているのだが、あの時ほど、それが残酷に思えたことはなかった。
把瑠都は、仕切りの時も、取り組みの時も、終始、下を向いていた。目には涙を浮かべていたようにも見えた。いつも陽気な把瑠都であるが、あんな把瑠都は始めて見た。

今更ではあるが、相撲というものは、スポーツとは違う別の何かである。
例えば、力士達は花道から姿を現してから、引っ込むまでの間、力士の顔となる。出来うる限り感情は抑え、個人としての顔は見せないものである。おそらく、土俵上での塩撒き、四股、仕切りといった仕草や、髷、マワシといった姿は、つまり大相撲の伝統と呼ばれる一連の所作は、徹底的に個人を消すために存在するのである。
そして、ある程度、個人を消すことに成功しているからこそ、どんな不祥事があったとしても、人気の大横綱が引退したとしても、大相撲は続いているのである。そんなシステムを作り上げた大相撲協会は、一見、時代遅れの旧弊のようにも見られがちではあるが、実は、相当に周到で老獪な組織なのかもしれない。

そういえば、今場所の最初、白鵬はインタビューの中で「相撲とはスポーツではなく、日本そのものである」というようなことを語っていた。
その言葉を、先ほどの文脈で解釈するならば、大相撲というものが個人を徹底的に消そうとするシステムであることとも関係しているのかもしれない。

ご存知の通り、日本では、共同体の中の個人は、決して個人ではない。
例えば、会社における部長とは、個人の本当の性格は別にして、部長としての役割を演じる人のことをいう。いい部長というのは、その役割を演じきれる人のことを言うのだ。
おそらく、白鵬というモンゴルから来た聡明な青年は、そのことを理解しているのだろう。彼は、白鵬である間は、決してムンフバティーン・ダワージャルガルとしての顔を見せることはない。彼が自身の怪我について、ほとんど語らないのは、それが横綱として相応しくない行為と考えているからかもしれない。彼はその意味でも十分横綱の資格があるのだ。

一方で、琴欧洲の一番で完敗を喫し、土俵下で、大関としての顔を一瞬、忘れて、カイド・ホォーヴェルソンの顔を見せてしまった把瑠都は、その意味でもまだまだ横綱には遠いと思わされた。おそらく、それは強弱の問題ではない。彼には大相撲という共同体において、横綱という役割を演じるだけの器がまだ備わっていないということなのである。
いずれにしても、把瑠都の綱取りへの挑戦は、まだまだこれからである。また、来場所から心機一転、頑張って欲しい!

まさむね

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