宮崎駿は「風の谷のナウシカ」で新しい日本神話を創ろうとした

念願だったアニメ「風の谷のナウシカ」を観た。
このアニメは、1984年3月の封切りである。ちょうど、僕が新卒の年、新入社員研修時に隣の席の奴が、僕にこのアニメの話をしたのだが、何も知らない僕は、「えっ、風邪の時の治し方って、何?」とマジでボケた質問をしたのを今でも覚えている。
今から25年以上も前の話である。
それ以来、僕はずーっとこのアニメを、宮崎駿の代表作と知りながら見逃してきたわけだ。
そして、今回、初めて観た。そして、ナウシカというのは女性だったということを初めて知ったのであった。

さて、それはともかく、このアニメの内容に話を進める。
ストーリーに関しては、ほとんどの方は既にご覧になられているかと思うので、あらすじなどは省略するが、端的に言って、宮崎さんは、未来の日本人に対して「新しい日本の神話を創りたかったんじゃないかな」というのが僕の第一の感想であった。それは、将来的に、放射能に汚染された大地に住まざるを得なくなるであろう日本人が、新たに歩みだすための神話である。
(ちなみに、この作品の封切り日が、3月11日だったというのは何かの因縁だろうか。)

最後の方に、王蟲(オーム)の子供を救出したナウシカが、一旦は人間の所業に怒り狂った王蟲の大群に吹っ飛ばされるが、正気を取り戻した王蟲達によって、生き返らされるというシーンがある。そして、「その者、青き衣をまといて黄金の野に降り立つべし」という古の言い伝えの通りに、ナウシカは谷に戻ってくる。
これは、多くの神話に見られるのと同じような英雄の死と再生の物語に他ならない。
しかも、その時、大ババの脳裏に浮かぶ勇者の姿はまるで、金色の鳶に導かれて大和に入る神武天皇を思い浮かべさせるし、ナウシカの胸の白地に赤の模様はまるで日の丸に見えた。

勿論、宮崎監督が、親サヨク的な方だということを承知の上だが、僕にはそう見えたのである。
これは1984年と2012年との、時間差がゆえなのであろうか。

さて、このアニメの舞台となった風の谷は、世界最終戦争(火の七日間)から千年経った、この地球の辺境で残された、数少ない人類の住める場所という設定である。
それは、この土地が常に海から吹く風の流れによって、空気が清浄に保たれているからである。人々は、この風を活用した風車によって、地下から水を汲みだし、その清浄な水によって農業を営んでいる。おそらく、そのために、この土地は風を神として崇めている。
赤子が生まれた時に、「この子にいい風が吹きますように」というなんとも、優しい祈りの言葉をかけるシーンは、この村独自の信仰心から生まれた言葉であろう。
そして、その神である風を自由に操れる術に長けた一家がこの谷の族長一家であり、ナウシカはその一家に生まれたいわば王女である。

ナウシカの父親・ジルがトルメキアの兵隊に殺されたのを知った時、ナウシカはその怒りによって、風が吹き上がり、髪の毛を逆立てるシーンがあるが、僕はこれは、風の神に取り憑かれた(風を操れる能力を、父の死によって、ナウシカが受け継いだ)[1]瞬間であると解釈したい。
また、おそらく、最後の方で、ナウシカ不在の風の谷において、一瞬、風が止んでしまい不吉な空気が流れるのだが、これは、王蟲の来襲によって生じる谷の危機、そしてナウシカの死の予兆である。
というのも、ナウシカが再生すると風が元通りに吹き出すからであり、それと同時に、鎮痛そのものだった谷の人々を取り巻く空気をも心理的な風によって吹き飛ばしてしまったからである。
このようにナウシカの感情や、その生死によって風の動向が左右されるという意味でも、彼女は普通の人間ではなく、神話的な存在として描かれていると僕は思う。

そういえば、かつて僕は、「アシタカは成長しない 「もののけ姫」という神話」というエントリーで、もののけ姫の主人公のアシタカが決してブレない性格を持った神話的存在であることを書いたが、全く同じ意味で、ナウシカもブレない。

彼女の行動原理は、ただそ「殺さないで!」という言葉に集約されている平和主義である。その一点の「正義」を原理にしているため、彼女の行動にはブレがないのだ。変な言い方であるが、おそらく、彼女に対しては、その点に関しての妥協はないし、話し合いは無意味であろう。その意味で、彼女は原理主義者なのである。

ただ、一箇所だけ、彼女の父親を殺害した兵士達を殺してしまった後に、「私、自分が怖い。憎しみに駆られて何をするかわからない。もう誰も殺したくないのに。」というようなことをユパに告白するシーンがある。
僕は、このシーンを観た時、「もののけ姫」で、アシタカが、エボシに対して、その右手が勝手に剣を抜こうとするのを左手で制御しようとするシーンを思い出した。つまり、アシタカもナウシカも、自分の中の葛藤(邪悪な想念)とは、自分の意識とは別の何モノか(自分では制御出来ないなにものか)が自分に憑り依くことによって生じるというような描写がされている。つまり、そのように描くことによって、両者共通のブレは周到に回避されているのである。

ちなみに、「風の谷のナウシカ」と「もののけ姫」との対比で言えば、トルメキアのクシャナとタタラ場のエボシとは、そのカリスマ性や合理性において酷似しているし、また、クロトワとジコ坊は参謀格で微妙にコミカルという点で、王蟲とシシ神は、原始的自然の守り神と言う意味で似ていなくもない。

さて、僕が、「風の谷のナウシカ」にさらに興味を抱くのは、このアニメでは、神話的原理主義のナウシカの対極的な存在として、内面を変化させる存在としてトルメキアの王女・クシャナをも描かれているという点であるということも付け加えておきたい。
この物語の中に善悪という座標軸があるとすれば、最初は悪の方に描かれていた(あるいは、平和と戦争という軸があれば、戦争の方に描かれていた)クシャナであるが、物語が進み、ナウシカと接触するにつれて、変化してくるのである。
物語の前半では、命を助けられたにもかかわらず、ナウシカに「甘いな・・・」と言ってピストルを向けた彼女であるが、後に、「あの娘とゆっくり話をしたかった。」とつぶやき、最後は黙って風の谷を後にする。これは、クシャナが、ナウシカの善に感染したという言い方も出来るが、逆に言えば、クシャナが、復讐心を克服し、成長したというようにも取れる。
実は、この「風の谷のナウシカ」は、クシャナの成長譚という側面を持っているのだ。
そして、僕は、このクシャナの存在こそが、この神話を、より深みのある「芸術」にているのではないかとすら考えているのである。

それでは、最後に、それでは、このアニメで描かれている神話はどこへ向うのであろうか?ということについて考えてみたいと思う。

おそらく、風の谷も、トルメキアの飛行船によって持ち込まれた胞子によって、近い将来、腐海となってしまうだろう。
それゆえ、ナウシカに率いられた風の谷の一族は、腐海によって清浄にされた地下に移り住み、新しい人類としての文明を築いていくのではないだろうか。
エンディングの最後のシーンで、地下の砂地に生えた一本の被子植物(おそらく、ナウシカが谷から持ち込んだチコの実から生えてきたと思われる)はそのことを暗示しているのだ、と僕は思う。

まさむね

※封切りからおよそ27年も経っている名作です。おそらく、多くの人が解説や解釈を既にされているかと思います。漫画版も読んでいない立場で、敢えて、自分なりに、素で作品に向き合ってに書いてみたつもりです。勘違いなどありましたら、是非、コメントにてご教授下さい。

[1]この部分追記 風を操れる能力を、父の死によって、ナウシカが受け継いだ → 風の神に取り憑かれた(風を操れる能力を、父の死によって、ナウシカが受け継いだ) 2012.04.17

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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