「電脳コイル」 日本民俗的DNAを覚醒させる電脳SF

僕は子供の頃から、神社があると何故か鳥居をくぐってみたくなった。今でもそうだ。

最近は、ただ行くだけではもったいないので、寺社紋を撮影して、Googleマップ上に記録するようにしている。それが、「全国寺社紋地図」である。
また、姉妹ページとして「日本家紋地図」というのも作っている。こちらは、街中で見かけた家紋の記録だ。
おそらく、ほとんどの方には全く興味のない地図であろうが、僕にとってはこの地図を充実させることが、昨今の楽しみの一つになっているのである。

さて、そんな神社の中で僕が特に気なる場所がある。それは、清浄に掃き清められた参道でも、拝殿の前でもない。
神社によって異なるのだが、一般的には、人が出入りする広場が徐々に草むらや竹藪になっていくような、そんな手入れの行き届いていない雑然とした境目の場所が気になって仕方がないのである。
そこは何もない場所、忘れ去られた場所である。しかし、それがゆえに、僕にとっては「何か」の気配のする”濃い場所”なのである。

今日のエントリーでご紹介する「電脳コイル」は、そんな”濃い場所”からの想像力をアニメにしたような作品であった。

舞台は2026年のとある地方都市・大黒市。現実拡張機能を持った「電脳メガネ」と呼ばれるメガネをかけることによって、現実世界と同時に電脳空間を生きる子供達の一夏の話である。
ここでは、子供達はメタバグ集めという遊びに熱中している。
このメタバグは、電脳空間の歪み(異なるバージョンの空間の継ぎ目)に発生する物質で、メタタグの原料となるという。
また、このメタタグは、それを貼ると、結界が作れたり、電脳空間上の生き物を治癒出来たりするというような御札で、メガシ屋と呼ばれる駄菓子屋のような店で換金してもらえる。それゆえに、子供達はこのメタバグ収集に血眼になっているのである。ちなみに、このメタバグ→メタタグ製造は、そのメガシ屋にいる”メガばぁ”という胡散臭いおばあさんだけが行えるのだ。

まぁ、言葉で説明してもわかりにくいかと思うのでこのあたりは、ご覧になっていない方は流して読んでください。
で、僕が言いたいのは、こうしたメタバグ集めやメタタグ使用といった行為はあくまでも子供達が勝手にやっている市当局”非公認”の遊びということである。
実は、メタバグ自体、本来はあってはならない一瞬のバグが形象化したものだからである。それゆえに、市当局ではキュウちゃんやサッチーと呼ばれるバグ修正ソフトによって片っ端からそのメタバグを削除しまくる。子供達はそれらの攻撃をかいくぐってメタバグを集める。この市当局から派遣されたソフトによる子供達の追跡劇は、誰しもが子供の頃に、「ここでは遊んじゃいけない」と言われた空き地で遊び、他人の家の柿の実を取って走り逃げるような、そういった懐かしいスリリングな記憶を思い起こさせる。
この鬼ごっこにいつの間にか夢中になってしまう僕は、もうそれだけで、この「電脳コイル」の世界に洗脳されかけているのかもしれない。

しかし、物語はそんな単純な遊びで済むはずがない。話が進むにつれて、その裏に潜む電脳空間の謎が徐々に明らかになっていくのである。

実は、電脳世界の中にある「古い空間」には、そのメタバグを食べるイリーガルという黒い化け物(コンピュータウィルス)が潜んでいるのだ。さらに、そのイリーガルの他に、ヌルというイリーガルの親玉みたいな存在もいて、人間がそれに触れられると、現実体と電脳体が分離して、向こうの世界に連れて行かれてしまうというでのである。

イリーガルって何だったんだろう。
ずっと考えてた。今までのイリーガルは全部、何かの感情だったんじゃないかって。
「憧れ」とか、「怖い」とか、もう会えなくなってしまった誰かに会いたい、とか・・・。
そういう気持ちや、誰にも知られずに消えていくはずの気持ちを、
あのヌルたちが拾い上げていたとしたら、それがイリーガルなんじゃないかって。

これは、最終話のエンドロール中に一人の少年(ハラケン)がつぶやく言葉である。彼が抱くイリーガル観は、僕が、子供の頃から、神社境内の辺境部という「古い場所」に存在する「何か」に対して抱き続けてきた感覚と非常に近いように思われた。つまり、僕が感じた「何か」というのは、少年が言うような人々の忘れられた気持ちなのではないだろうか?
このアニメは、僕に、そういった、一瞬、ゾッとするような感覚を強引にかぶせてくるのである。

そして、おそらく「電脳コイル」が興味深いのは、まさに、そうした感覚を、電脳空間という近未来テクノロジーによって具現化しているところであろう。

また、この具現化は、おそらく、僕一人の感覚に対するものではない。これは、日本独自の生霊観念の具現化にも他ならないのである。
日本では古来、人間が抱く強い想念は、現世に留まり続け、時に、厄災の原因になるとされてきた。「源氏物語」に出てくる六条御息所による葵上に対する生霊が有名だ。
ちなみに、日本人の行動原理の奥には、この生霊を、出来るだけ発生させない(=負の想念を抱かせない)ための工夫がいくつか見られるが、「空気を読むこと」という作法もその一つである。
このアニメがどこか古風なのは、決して、舞台が古都で、鳥居、神棚、夏祭りなどが頻繁に出てくるからだけではない。電脳的意匠の陰に隠れてはいるが、この物語の根底には、日本的なものが流れているからなのである。

さらに、上記の説を補足するならば、このアニメには、他にも日本の記紀や伝承、民俗社会からインスパイアされたと思うようなギミックが沢山出てくる。
例えば、御札(メタタグ)が、結界を結ぶ道具や外界からの魔の侵入を防ぐツールとして出てきたり、神社が子供達にとって、大人の干渉(サッチーやキュウちゃんからの攻撃)から逃れることの出来る場所、つまり世間的価値観から自由な場所(=無縁な場所)として登場したりするのである。(※ただし、2.0は別だが)
また、イサコという少女が電脳ツールとして使用するモジョ(8匹)はまるで、陰陽師・安倍清明が使役したという「式神」を思い起こさせるし、「古い空間」へ行くために決まった道順を通らなければならないという設定は、「方違え」に着想を得たのかもしれない。あるいは、ヌル(もともとオジジ)が街外れの地蔵塚に現れて、幼児のヤサ子を連れて行く場面は、日本各地に言い伝えられている、「村はずれの隠し神(隠しん坊とも)伝承」を思い起こさせる。
さらに言えば、キョウコという幼児がアッチの異世界で屋台のおじさんにもらった杏飴を口にする直前で捨てることによって、現世に戻ってこられたシーンは、黄泉の国の食べ物を食すとそこの住人になってしまうというイザナギとイザナミの話を下敷きにしていると思われるし、最後、兄・宗助の電脳メガネを壊して彼の野望を打ち砕いた弟・タケルの名前は、そのまま、兄殺し・ヤマトタケルと同じなのだ。そして何よりも、舞台となっている場所自体が、日本国土の氏神とも言うべき大黒(=大国主命)を地名にしているではないか。

もしかしたら、電脳空間というSF的ギミックは、その設定があまりにも自由さを許すがゆえに、逆に普段は古層に眠っている民俗的DNAを覚醒させるのかもしれない。
あるいは、最近僕は、このアニメという表現手段自身が、日本古来の神道や霊の観念を表現するのにとても適しているのではないかとすら考えているのである。まぁ、このあたりに関しては、また別途、考察してみたいと思う。

さて、最後に、この物語は、別の観点から見れば、小学校6年生という、子供から大人になる一瞬の夏の成長物語である、ということも付け加えておきたい。

この間、主人公のヤサコは、恋をして、自分の罪や自己欺瞞に気付き、母の愛を知り、真の友情に目覚める。
孤独だったイサコは、過去の夢と決別し、現実を生きる決心をし、友達を得る。
悪童だったダイチは、お山の大将から引きずり降ろされ、屈辱を味わい、友人を赦すことを覚え、肉体の力をつける。

このアニメはそんな普通の子供達の一瞬を劇的に捉えた秀作である。
固定化されたキャラによる掛け合いというのも悪くはないが、このアニメのような繊細で微妙なキャラクタ表現というのもまた、素晴らしいものである。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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